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室生犀星「碓氷山上之月」⑨鮎の感じ

2026.10.23

【室生犀星「碓氷山上之月」⑨鮎の感じ】
        
 朝起(あさおき)、
冷たい雨を見た。

 縁さきの山百合が
雨垂(あまだれ)を含んで
うなだれてゐる。

家からの手紙に
朝子乳吐くことと、
東京から遊びにきてゐる
ひろちやんの耳の中へ
おできができた、
多分、水泳のためであらう、
なるべく早くかへれとあつた。

予はまた心欝(こころうつ)した。

 澄江堂(ちょうこうどう)
起きてくる。――

 「夏に子供をあづかるのは考へものだ。」
 さう言つた。

 なるほど考へものであると思つた。

 二人で食事をするのは
每度のことである。

しかし予はまだ澄江堂が
洗面をせずにゐることに
注意を払つた。

が、かれは平然と箸の先きで
木つつき鳥のやうに
半熟の卵のからをこくめいに叩いて、
その破れたところから
剝(は)ぎはじめた。

洗面をせずに
飯をくふつもりらしい。

飯が終つた。

 「据風呂(すえぶろ)に
犀星のゐる夜さむかな、
はどうぢや。」

 「ひととほりはいいな。」

 かれの脊中は
形よい小ぢんまりした
肉をもつてゐる。

ちよつと鮎の感じが
あるなと思つた。

かれは湯をあびながら、
 「けさ顏を洗ふのを忘れてしまつたよ。」

 さう言つて洗面した。

「僕はちやんと知つてゐたんだが
默つてゐたんだ。」
さう予は言つた。

 午後、
部屋にこもつて
苦吟してゐるらしかつた。

それが二三日前から
烈しくなつたやうな氣がした。

 夕方、裏門きはの
女中部屋の戶板に向ひ、
立つたままで女中のお雪が泣いてゐた。

――色も白く浴衣も白い
名もお雪といふ此の女中は、
どこかの小間使ひをしてゐたので
能く料理番なぞに叱られると
聞いてゐたが、
可愛さうな氣がした。

 「さつき百合が泣いてゐた。……」

 「可哀さうに
いぢめられるんだね。――」

 澄江堂と予とはこの女を
百合と言つてゐたのである。

百合は一日くらゐ
客の間の世話を燒くと、
つぎからつぎへと新手の客に
代へられた。

(七日、七十八度)

⸻

画像は、
芥川龍之介が愛した追分宿です。

ところで、
細かいことが気になる犀星。

食後すぐの甘い菓子はよくない、
の次は
洗面せずに朝食をとることへの
抵抗感を書いています。

犀星の筆により、
神経質そうに見えて
実は日常生活には無頓着な
芥川の意外な側面が見えてきます。

しかし風呂場で
芥川の背中を見て、
「鮎の感じがある」とは
言い得て妙。

堀辰雄が「痩せぎすの」
と書くのに対し、
犀星の「鮎の感じ」は
男の色気を感じさせるような
見事な表現です。

ちなみに華氏七十八度は、
摂氏約25.6℃です。

撮影日20251021
投稿日20261023

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