【堀辰雄「菜穂子 楡の家 第二部」②外遊】
一年前、
何者かから逃れるように
日本を去られて、
支那へ赴かれてからも、
二三度森さんは
私のところにもお便りを下すった。
支那の外のところは
あまりお好きでないらしかったが、
都市全体が
「古い森林のような」感じのする
北京だけはよほど
お気に入られたと見え、
自分はこういうところで
孤独な晩年を過ごしながら
誰にも知られずに
死んでゆきたいなどと
御常談のようにお書きになって
寄こされたこともあったが、
まさか今が今こんな事になろうとは
私には考えられなかった。
或は森さんは
北京をはじめて見られて
そんな事を私に書いて
お寄こしになったときから、
既に御自分の運命を
見透されていたのかも
知れなかった。……
私は一昨々年の夏、
O村で森さんにお会いしたきりで、
その後はときおり何か人生に
疲れ切ったような、
同時にそういう御自分を
自嘲せられるような、
いかにも痛々しい感じのする
お便りばかりをいただいていた。
それに対して私などに
あの方をお慰めできるような
返事などがどうして書けたろう?
殊に支那へ突然出立される前に、
何か非常に私にも
お逢いになりたがって
いられたようだったが
(どうしてそんな心の余裕が
おありになったのかしら?)、
私はまだ先の事があってから
あの方にさっぱりとした気持で
お逢い出来ないような気がして、
それは婉曲(えんきょく)に
おことわりした。
そんな機会にでももう一度
お逢いしていたら、
と今になって見れば幾分悔やまれる。
が、直接お逢いしてみたところで、
手紙以上のことが
どうしてあの方に向って
私に云えただろう? ……
(堀辰雄「菜穂子 楡の家 第二部」より)
ー
画像は、
湯川のかつら淵です。
ところで芥川龍之介は
大阪毎日新聞社の海外視察員として
1921年(大正10年)の
3月下旬から7月上旬にかけての
約120日間にわたり、
中国を訪問しています。
芥川の
「支那游記」自序には
「上海(シャンハイ)、
南京(ナンキン)、
九江(キュウキャン)、
漢口(ハンカオ)、
長沙(ちょうさ)、
洛陽(らくよう)、
北京(ペキン)、
大同(だいどう)、
天津(てんしん)等を遍歴した」
と書かれています。
帰国した後
芥川は、
「上海游記」や
「長江游記」、
「北京日記抄」などを執筆し
それらは大阪毎日新聞に
連載されました。
ただしこのとき芥川は29歳で、
文章からは意気揚々とした
気持ちが伝わってきます。
とてもこの
「楡の家 第二部」の小説家、
森さんのような
状態ではありません。
それでも堀辰雄は
「北京に行ったことがある小説家」
ということで
芥川龍之介を連想してもらうために、
「森さんは北京で亡くなった」
という設定にしたのだと
思われます。
そして
「何者かから逃れるように
日本を去られて」
ということを堀辰雄は
書きたかったのではないかと、
筆者は思います。
「芥川は当局の魔の手から
逃げたかった。
しかしそうできなかったから、
自死を選ばざるを得なかった」
という意味ではないでしょうか。
芥川が心を打ち明けた
弟子だからこその
文ではないかと、
筆者は推測します。











