【堀辰雄「菜穂子 楡の家 第二部」①急逝】
第二部
一九二八年九月二十三日、O村にて
この日記に再び自分が
戻って来ることがあろうなどとは
私はこの二三年思ってもみなかった。
去年のいま頃、
このO村でふとしたことから
暫く忘れていたこの日記のことを
思い出させられて、
何とも云えない
慚愧(ざんき)のあまりに
これを焼いてしまおうかと
思ったことはあった。
が、そのときそれを焼く前に
一度読み返しておこうと思って、
それすらためらわれているうちに
焼く機会さえ失ってしまった位で、
よもや自分がそれを再び取り上げて
書き続けるような事になろうとは
夢にも思わなかったのである。
それをこうやって再び自分の気持に
鞭(むち)うつようにしながら
書き続けようとする理由は、
これを読んでゆくうちに
お前には分かっていただけるのでは
ないかと思う。
森さんが突然北京(ペキン)で
お逝(な)くなりになったのを
私が新聞で知ったのは、
去年の七月の朝から
息苦しいほど暑かった日であった。
その夏になる前に
征雄は台湾の大学に
赴任したばかりの上、
丁度お前もその数日前から
一人でO村の山の家に出掛けて居り、
雑司ヶ谷のだだっ広い家には
私ひとりきり
取り残されていたのだった。
その新聞の記事で見ると、
この一箇年殆ど
支那でばかりお暮らしになって、
作品もあまり発表せられなく なっていられた森さんは、
古い北京の或物静かなホテルで、
宿痾(しゅくあ)のために
数週間病床に就かれたまま、
何者かの来るのを死の直前まで
待たれるようにしながら、
空しく最後の息を
引きとって行かれたとの事だった。
(堀辰雄「菜穂子 楡の家 第二部」より)
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画像は、
中山道追分宿にある
泉洞寺(せんとうじ)の
石仏です。
摩利支天でしょうか。
台座には三猿も見られます。
引用したのは、
堀辰雄が1941年9月に発表した
「目覚め」です。
同年3月に堀は、
「菜穂子」を発表。
「目覚め」はのちに
「楡の家」第二部として、
「菜穂子」のプロローグ
となりました。
ここまで時系列に
堀の作品を
ご紹介して参りましたが
「楡の家 第二部」は
1934年10月発表の
「物語の女」すなわち
「楡の家 第一部」の続きなので、
ここで取り上げることにします。
北京で亡くなった
小説家の「森さん」というのは、
もちろん芥川龍之介を
モデルとした人物です。
森さんが亡くなったのが
芥川と同じ1927年7月
ということになっていますし、
芥川自身も1921年に
海外視察員として
上海や北京を訪れています。
小説という形をとりながら、
師である芥川龍之介を
思わせる人物について書く。
「芥川の思い出」とせずに
「小説」とするのは、
やはりオブラートにくるみたい
要素があるからかもしれません。










