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堀辰雄「物語の女」⑪女心

2026.09.13

【堀辰雄「物語の女」⑪女心】

その年は空梅雨であった。

そうして六月の末から
七月のはじめにかけて、
真夏のように暑い日照りが
続いていた。

私はめっきり
身体が衰えたような気がし、
一人だけ先きに、
早目にO村に出かけた。

が、それから一週間
するかしないうちに、
急に梅雨気味の雨がふりだし、
それが毎日のように降り続いた。

間歇的(かんけつてき)に
小止みにはなったが、
しかしそんなときは霧がひどくて、
近くの山々すら
殆んどその姿を見せずにいた。

 私はそんな鬱陶しいお天気を
かえって好いことにしていた。

それが私の孤独を
完全に守っていて呉れたからだった。

一日は他の日に似ていた。

ひえびえとした雨が
あちらこちらに溜(たま)っている
楡(にれ)の落葉を腐らせ、
それを一面に臭わせていた。

ただ小鳥だけは毎日異ったのが、
かわるがわる、
庭の梢にやってきて
異った声で啼(な)いていた。

私は窓に近よりながら、
どんな小鳥だろうと見ようとすると、
この頃すこし眼が悪くなってきたのか、
いつまでもそれが
見あたらずにいることがあった。

そのことは半ば私を悲しませ、
半ば私の気に入った。

が、そうしていつまでも
うつけたように、
かすかに揺れ動いている梢を
見上げていると、
いきなり私の眼の前に、
蜘蛛(くも)が
長く糸をひきながら落ちてきて、
私をびっくりさせたりした。

 そのうちに、
こんなに悪い陽気だけれど、
ぼつぼつと別荘の人たちも
来だしたらしい。

二三度、
私は裏の雑木林のなかを、
淋しそうにレエンコオトを
ひっかけたきりで通って行く
明さんらしい姿をお見かけしたが、
まだ私きりなことを
知っていらっしゃるからか、
いつもうちへは
お立寄りにならなかった。

 八月にはいっても、
まだ梅雨じみた天候がつづいていた。

そのうちにお前もやって来たし、
森さんがまた
K村にいらしっているとか、
これからいらっしゃるのだとか、
あんまりはっきりしない噂を耳にした。

何故またこんな悪い陽気だのに
あの方はいらっしゃるのかしら? 
あそこまでいらっしたら、
こちらへも
お見えになるかも知れないが、
私はいまのような気もちでは
まだお目にかからない方がいいと思う。

しかしそんな手紙を
わざわざ差し上げるのも何んだから、
いらしったらいらしったでいい、
その時こそ、
私はあの方によくお話をしよう。

その場に菜穂子も呼んで、
あの子によく納得できるように、
お話をしよう。

何を云おうかなどとは
考えない方がいい。

放っておけば、
云うことはひとりでに
出てくるものだ……。

(堀辰雄「物語の女」より)

画像は
霧の落葉松林です。

ところで「物語の女」は
「菜穂子」の冒頭
「楡の家」に収録されており
森於菟彦は芥川龍之介が、
三村夫人は片山廣子が
モデルとされています。

引用したのは、
追分で梅雨を過ごす場面。

花鳥風月
軽井沢での別荘暮らしは、
今も昔も大差ないのだ
ということが分かります。

堀辰雄は、
こうした揺れる女心を
書くことに長けています。

撮影日20260717
投稿日20260913

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