【堀辰雄「物語の女」⑥手紙】
それから数日後、
東京から電報が来て、
征雄が腸カタルを起して
寝こんでいるから、
誰か一人帰ってくれというので、
とりあえずお前だけが帰京した。
お前の出発したあとへ、
森さんからお手紙が来た。
・
先日はいろいろ
有難うございました。
O村は私もたいへん
好きになりました。
私もああいうところに
隠遁(いんとん)できたらと
柄にないことまで考えています。
然(しか)しこの頃の気もちは
却(かえ)って再び
二十四五になったような、
何やら訣(わけ)の分らぬ興奮を
感じている位です。
殊にあの村はずれで
御一緒に美しい虹を仰いだときは、
本当にこれまで何やら
行き詰まっていたようで
暗澹(あんたん)としていた
私の気もちも
急に開けだしたような気がしました。
これは全くあなたのお陰だと
思って居ります。
あの折、
私は或る自叙伝風な小説の
ヒントをまで得ました。
明日、私は帰京いたす積りですが、
いずれ又、お目にかかって
ゆっくりお話したいと思います。
数日前お嬢さんが
お見えになりましたが、
私の知らない間に、
お帰りになっていました。
どうなさったのですか?
・
私がこの手紙を読むそばに、
若(も)しお前がおいでだったら、
私にはこの手紙はもっと深い意味の
ものにとれたかも知れない。
しかし、私一人きりだったことが、
読んだあとで平気でそれを
他の郵便物と一緒に
机の上に放り出させて置いた。
それが私にこの手紙を
ごく何んでもないもののように
思い込ませて呉れた。
(堀辰雄「物語の女」より)
ー
画像は、
夕暮れの追分宿です。
ところで「物語の女」は
「菜穂子」の冒頭
「楡の家」に収録されており
森於菟彦は芥川龍之介が、
三村夫人は片山廣子が
モデルとされています。
あくまでも「物語」なのですが
読者はモデルが誰だか
すぐに分かるように
なっているので、
この手紙も
実際に芥川龍之介から
片山廣子に送られたものを
元にしているのかもしれません。
そうだとすると
芥川は鄙びた追分に感銘を受け、
片山廣子と見た虹によって
青年時代の心境を取り戻し、
自叙伝風な小説のヒントまで
得たことになります。
この小説が
ある程度事実を
反映しているのだとすると、
芥川龍之介と追分の間には
深い繋がりがあることになります。











