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堀辰雄「物語の女」⑤虹

2026.09.07

【堀辰雄「物語の女」⑤虹】

北よりには浅間山がまだ
一面に雨雲をかぶりながら、
その赤らんだ肌をところどころ
覗かせていた。

しかし南の方は
もうすっかり晴れ渡り、
いつもよりちかぢかと見える
真向うの小山の上に
捲き雲が一かたまり
残っているきりだった。

私たちが其処に
ぼんやりと立ったまま、
気持よさそうに
つめたい風に吹かれていると、
丁度その瞬間、
その真向うの小山のてっぺんから
少し手前の松林にかけて、
あたかもそれを
待ち設けでもしていたかのように、
一すじの虹がほのかに見えだした。

「まあ綺麗な虹だこと……」

思わずそう口に出しながら私は
パラソルのなかからそれを見上げた。

森さんも私のそばに立ったまま、
まぶしそうにその虹を見上げていた。

そうして何だか非常に穏かな、
そのくせ妙に興奮なさって
いらっしゃるような
面持をしていられた。

 そのうち向うの村道から
一台の自動車が
光りながら走って来た。

その中で誰かが私たちに向って
手をふっているのが認められた。

それは森さんのお車に
乗せて貰って来たお前と
お隣りの明(あきら)さんだった。

明さんは写真機を
持っていらしった。

そうしてお前が耳打ちすると、
明さんはその写真機を
あの方に横から向けたりした。

私は叱言(こごと)も言えずに、
はらはらしてお前たちの
そんな子供らしいはしゃぎ方を
見ているよりしようがなかった。

あの方はしかしそれには
お気がつかないような
様子をなすって、
すこし神経質そうに
足もとの草をステッキで突いたり、
ときどき私と
言葉を交わしたりしながら、
お前たちに
撮られるがままになっていられた。

(堀辰雄「物語の女」より)

画像は
浅間山と朝の太陽、
並びに幻日(げんじつ)です。

ところで「物語の女」は
「菜穂子」の冒頭
「楡の家」に収録されており
森於菟彦は芥川龍之介が、
三村夫人は片山廣子が
モデルとされています。

引用したのは、
「物語の女」の最大の見せ場。

森於菟彦と三村夫人が、
追分の「分去(わかさ)れ」で
虹を見るシーンです。

心の恋人との出会いを、
祝福するような虹。

森於菟彦はこの時
感極まっていたようで、
三村夫人の隣人の
明さんという若者に
パパラッチをされても
嫌な顔ひとつしません。

実を言うと三村夫人の娘
「菜穂子」のモデルとなった
片山廣子の娘の総子(そうこ)さんも
芥川に憧れていたようで、
その母娘の微妙な心理描写が
「物語の女」の
メインテーマともなっています。

芥川龍之介と
片山廣子・総子の母娘、
並びに堀辰雄は
全員が深い
前世からの結びつきを
抱えていたように
筆者は感じます。

撮影日20260711
投稿日20260907

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