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堀辰雄「物語の女」③雷鳴

2026.09.05

【堀辰雄「物語の女」③雷鳴】

それから一週間ばかり立った、
或る日の午後だった。

私の別荘の裏の、
雑木林のなかで
自動車の爆音らしいものが起った。

車などのはいって来られそうも
ないところだのに
誰がそんなところに
自動車を乗り入れたのだろう、
道でも間違えたのかしらと思いながら、
丁度私は二階の部屋にいたので
窓から見下ろすと、
雑木林の中にはさまって
とうとう身動きが
とれなくなってしまっている
自動車の中から、
森さんが一人で降りて来られた。

そして私のいる窓の方を
お見上げになったが、
丁度一本の楡(にれ)の木の陰になって、
向うでは私に
お気づきにならないらしかった。

それに、うちの庭と、
いまあの方の立っていらっしゃる
場所との間には、
薄(すすき)だの、
細かい花を咲かせた
灌木(かんぼく)だのが
一面に生い茂っていた。

――そのため、
間違った道へ自動車を
乗り入られたあの方は、
私の家のすぐ裏の、
ついそこまで来ていながら、
それらに遮ぎられて、
いつまでもこちらへ
いらっしゃれずにいた。

それが私には心なしか、
なんだかお一人で
私のところへいらっしゃるのを
躊躇(ちゅうちょ)なさって
いられるようにも思えた。

 私はそれから階下へ降りていって、
とり散らかした
茶テエブルの上などを片づけながら、
何喰わぬ顔をしてお待ちしていた。

やっと楡の木の下に
森さんが現われた。

私ははじめて気がついたように、
惶(あわ)ててあの方をお迎えした。

「どうも、飛んだところへ
はいり込んでしまいまして……」

 あの方は、私の前に突立ったまま、
灌木の茂みの向うに
まだ車体の一部を覗かせながら、
しきりなしに爆音を立てている
車の方を振り向いていた。

 私はともかくあの方を
お上げして置いて、
それからお隣りへ遊びに行っている
お前を呼びにでもやろうと
思っているうちに、
さっきからすこし怪しかった空が
急に暗くなって来て、
いまにも夕立の来そうな
空合いになった。

森さんは何だか困ったような
顔つきをなさって、
「安宅さんをお誘いしたら、
何んだか夕立が来そうだから
厭(いや)だと云っていましたが、
どうも安宅さんの方が
当ったようですな……」

 そう云われながら、
絶えずその暗くなった空を
気になさっていた。

 向うの雑木林の上方に、
いちめんに古綿のような雲が
掩(おお)いかぶさっていたが、
一瞬間、稲妻がそれを
ジグザグに引き裂いた。

と思うと、
そのあたりで
凄(すさ)まじい雷鳴がした。

それから突然、
屋根板に一つかみの小石が
絶えず投げつけられるような
音がしだした。

……私たちはしばらくうつけたように、
お互に顔を見合わせていた。

それは非常に長い時間に見えた。

(堀辰雄「物語の女」より)

画像は、
中山道追分宿です。

ところで「物語の女」は
「菜穂子」の冒頭
「楡の家」に収録されており
森於菟彦は芥川龍之介が、
三村夫人は片山廣子が
モデルとされています。

引用したのは、
森於菟彦が運転手と共に
三村夫人の別荘を
訪問する場面です。

2人の間に既に
「秘密の好意」のようなものが
形成されているのが分かります。

目と目で語り合う、
互いの本心。

運命の相手というのは、
そういうものかもしれません。

撮影日20260628
投稿日20260905

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