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堀辰雄「菜穂子 楡の家 第二部」⑨葛藤

2026.09.26

【堀辰雄「菜穂子 楡の家 第二部」⑨葛藤】

「私、この頃こんな気がするわ、
男でも、女でも
結婚しないでいるうちは
かえって何かに
束縛されているような……

始終、脆(もろ)い、
移り易いようなもの、
例えば幸福なんていう
幻影(イリュウジョン)に
囚(とら)われているような……

そうではないのかしら?

しかし結婚してしまえば、
少くともそんな
果敢(はか)ないものからは
自由になれるような気がするわ……」

 私はすぐには
そういうお前の新しい考えに
ついては行かれなかった。

私はそれを聞きながら、
お前が自分の結婚ということを
当面の問題として
真剣になって考えているらしいのに
何よりも驚いた。

その点は、
私はすこし認識が足りなかった。

しかし、
いまお前の云ったような
結婚に対する見方が
お前自身の未経験な生活から
ひとりでに出来てきたものかどうか
と云うことになると
いささか懐疑的だった。

――私としては、
この儘こうして私の傍で
お前がいらいらしながら
暮らしていたら、
互に気持をこじらせ合ったまま、
自分で自分がどんなところへ
行ってしまうか分からない
と云ったような、
そんな不安な思いから
お前が苦しまぎれに
縋(すが)りついている、
成熟した他人の思想としてしか
見えないのだ……

「そういう考え方はそれはそれとして
肯(うなず)けるようだけれど、
何もその考えのために
お前のように結婚を
向きになって考えることは
ないと思うわ……」

私はそう自分の感じた
とおりのことを云った。

「……もうすこし、お前、
なんていったらいいか、
もうすこし、そうね、
暢気(のんき)になれないこと?」

 お前は顔に反射している
火かげのなかで、
一種の複雑な笑いのようなものを
閃(ひらめ)かせながら、
「お母様は結婚なさる前にも
暢気でいられた?」と突込んで来た。

「そうね……私は随分
暢気な方だったんでしょう、
なにしろまだ
十九かそこいらだったから。
……学校を出ると、
うちが貧乏のため母の理想の
洋行にやらせられずに、
すぐお嫁に
ゆかせられるようになったのを
大喜びしていた位でしたもの。……」

「でも、それはお父様が
好いお方なことが
お分かりになっていられたから
ではなくって?」

 お前の好いお父様の話が
いかにも自然に
私達の話題に上ったことが
急に私をいつになく
お前のまえで生き生きとさせ出した。

「本当に私には
もったいない位に好いお父様でした。
私の結婚生活が最初から最後まで
順調に行ったのも、
私の運が好かったのだ
などとは一度も私に思わせず、
そうなるのがさも当り前のように
考えさせたのが、
お父様の性格でした。

ことに私がいまでも
お父様に感謝しているのは、
結婚したてはまだほんの
小娘に過ぎなかった私を、
はじめからどんな場合にでも、
一個の女性としてばかりでなく、
一個の人間として
相手にして下すったことでした。
私はそのおかげでだんだん
人間としての
自信がついてきました。……」

「好いお父様だったのね。……」

お前までがいつになく
昔を懐しがるような
調子になって云った。

「私は子供の時分よく
お父様のところへ
お嫁に行きたいなあと
思っていたものだわ。……」

「…………」

私は思わず生き生きした
微笑をしながら黙っていた。

が、こういう昔話の出た際に、
もうすこしお父様の
生きていらしった頃のことや、
お亡くなりになった後のことについて
お前に云って置かなければ
ならない事があると思った。

(堀辰雄「菜穂子 楡の家 第二部」より)

ー

画像は、
追分宿です。

ところで
引用した三村夫人と
菜穂子の会話からは、
多くのことが読み取れます。

現代で言えば、
菜穂子は一種の
ファザーコンプレックスでしょうか。

素晴らし過ぎる父を持った
娘ならではの葛藤が、
見え隠れしています。

そして「父のような男性」に
出会うことはまずない
と諦めたことにより、
「結婚への夢」を
押し潰そうと
しているかのようです。

そういう女性の心理を、
堀辰雄はよく
理解しているなと驚かされます。

一方
恵まれた妻であったが故に、
菜穂子の心理が分からない
三村夫人の描写も見事です。

「菜穂子」が、
堀文学の到達点と
言われる理由が分かります。

撮影日20260709
投稿日20260926

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