【芥川龍之介「河童」⑥近代教】
そこへ偶然自動車を乗りつけたのは
あの音楽家のクラバツクです。
クラバツクはかう云ふ光景を見ると、
暫く戸口に佇んでゐました。
が、僕等の前へ歩み寄ると、
怒鳴りつけるやうに
マツグに話しかけました。
「それはトツクの遺言状ですか?」
「いや、最後に書いてゐた詩です。」
「詩?」
やはり少しも騒がないマツグは
髪を逆立てたクラバツクに
トツクの詩稿を渡しました。
クラバツクはあたりには目もやらずに
熱心にその詩稿を読み出しました。
…中略…
僕は未だに泣き声を絶たない
雌の河童に同情しましたから、
そつと肩を抱へるやうにし、
部屋の隅の長椅子へ
つれて行きました。
そこには二歳か三歳かの河童が一匹、
何も知らずに笑つてゐるのです。
僕は雌の河童の代りに
子供の河童をあやしてやりました。
するといつか僕の目にも
涙のたまるのを感じました。
僕が河童の国に住んでゐるうちに
涙と云ふものをこぼしたのは
前にも後にもこの時だけです。
「しかしかう云ふ我儘な河童と
一しよになつた家族は気の毒ですね。」
「何しろあとのことも
考へないのですから。」
裁判官のペツプは
不相変(あいかわらず)、
新しい巻煙草に火をつけながら、
資本家のゲエルに返事をしてゐました。
すると僕等を驚かせたのは
音楽家のクラバツクのおほ声です。
クラバツクは詩稿を握つたまま、
誰にともなしに呼びかけました。
「しめた!
すばらしい葬送曲が出来るぞ。」
クラバツクは細い目を
赫やかせたまま、
ちよつとマツグの手を握ると、
いきなり戸口へ飛んで行きました。
勿論もうこの時には
隣近所の河童が大勢、
トツクの家の戸口に集まり、
珍らしさうに家の中を
覗いてゐるのです。
しかしクラバツクは
この河童たちを遮二無二
左右へ押しのけるが早いか、
ひらりと自動車へ飛び乗りました。
同時に又自動車は
爆音を立てて忽ち
どこかへ行つてしまひました。
「こら、こら、さう覗いてはいかん。」
裁判官のペツプは巡査の代りに
大勢の河童を押し出した後、
トツクの家の戸をしめてしまひました。
部屋の中はそのせゐか
急にひつそりなつたものです。
僕等はかう云ふ静かさの中に
――高山植物の花の香に交つた
トツクの血の匂の中に
後始末のことなどを相談しました。
しかしあの哲学者のマツグだけは
トツクの死骸を眺めたまま、
ぼんやり何か考へてゐます。
僕はマツグの肩を叩き、
「何を考へてゐるのです?」
と尋ねました。
「河童の生活と云ふものをね。」
「河童の生活がどうなのです?」
「我々河童は何と云つても、
河童の生活を完うする為には、……」
マツグは多少羞(はづか)しさうに
かう小声でつけ加へました。
「兎に角我々河童以外の
何ものかの力を信ずることですね。」
十四
僕に宗教と云ふものを
思ひ出させたのは
かう云ふマツグの言葉です。
僕は勿論物質主義者ですから、
真面目に宗教を考へたことは
一度もなかつたのに違ひありません。
が、この時はトツクの死に
或感動を受けてゐた為に
一体河童の宗教は何であるかと
考へ出したのです。
僕は早速学生のラツプに
この問題を尋ねて見ました。
「それは基督教、仏教、モハメツト教、
拝火教なども行はれてゐます。
まづ一番勢力のあるものは
何と言つても近代教でせう。
生活教とも言ひますがね。」
(「生活教」と云ふ訳語は
当つてゐないかも知れません。
この原語は Quemoocha です。
cha は英吉利語の ism
と云ふ意味に当るでせう。
quemoo の原形 quemal の訳は
単に「生きる」と云ふよりも
「飯を食つたり、酒を飲んだり、
交合を行つたり」する意味です。)
(芥川龍之介「河童」より)
ー
画像は、
白糸の滝の遊歩道です。
ところで芥川が
自己を投影したとされる、
河童の詩人トックの死。
その死に際し、
芥川は哲学者のマッグに
「我々河童は何と云つても、
河童の生活を完うする為には、……」
「兎に角我々河童以外の
何ものかの力を信ずることですね。」
と言わせています。
このあと小説では、
河童の国の
「近代教」(生活教)なるものの
説明に入ります。
およそ信仰とは
言い難い内容である
河童の国の「近代教」で
芥川は日本のその時代の風潮を
シニカルに描き出し、
それでは「人生を完う」できない
ということを
示唆したのではないかと思います。









