MENU

お知らせ

News

堀辰雄「菜穂子 楡の家 第二部」⑥暖炉

2026.09.23

【堀辰雄「菜穂子 楡の家 第二部」⑥暖炉】

林の中から出きらないうちに、
もう日がすっかり傾いていた。

私は突然或決心をしながら、
おもわず足を早めて帰ってきた。

家に著くと、
私はすぐ二階の
自分の部屋に上がっていって、
此の手帳を用箪笥(ようだんす)の
奥から取り出してきた。

この数日、
日が山にはいると急に
大気が冷え冷えとしてくるので、
いつも私が夕方の散歩から
帰るまでに爺やに
暖炉に火を焚(た)いて置くように
云いつけてあったが、
その日に限って爺やは
他の用事に追われて、
まだ火を焚きつけていなかった。

私はいますぐにもその手帳を
暖炉に投げ込んでしまいたかったのだ。

が、私は傍らの椅子に腰かけたまま、
その手帳を無雑作に
手に丸めて持ちながら、
一種苛いら立だたしいような気持で、
爺やが薪を焚きつけているのを
見ている外はなかった。

 爺やはそういう
苛ら苛らしている私の方を
一度も振りかえろうとはせずに、
黙って薪を動かしていたが、
この人の好い単純な老人には
私はそんな瞬間にも
ふだんの物静かな奥様にしか
見えていなかったろう。

……それからこの夏私の来るまで
此処で一人で本ばかり読んで
暮らしていたらしい菜穂子だって
私にはあんなに
手のつけようのない娘にしか
思われないのに、
この爺やには矢っ張
私と同じような物静かな娘に
見えていたのだったろう。

そしてこういう単純な人達の目には、
いつも私達は
「お為合(しあ)わせな」人達なのだ。

私達がどんなに仲の悪い母娘で
あるかと云う事を
いくら云って聞かせてみても
此人達にはそんな事は
到底信ぜられないだろう。

(【堀辰雄「菜穂子 楡の家 第二部」より)

画像は
追分の暖炉の薪です。

ところで引用したのは
冬に向かう軽井沢の別荘で暮らす、
奥さまたちの生活です。

読者と散歩の日々。

モデルとなった片山廣子は
アイルランド文学翻訳者
であると同時に、
歌人で随筆家でもあります。

時間的余裕があるからこそ、
「書ける」のですね。

軽井沢は
こうした人々によって支えられ、
避暑地として発展してきました。

しかし小説の中の三村夫人は、
娘菜穂子との不和に悩んでいます。

その理由が、
次回以降明らかになってゆきます。

撮影日20260709
投稿日20260923

Pickup Site

ピックアップ