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堀辰雄「菜穂子 楡の家 第二部」④追分での日々

2026.09.21

【堀辰雄「菜穂子 楡の家 第二部」④追分での日々】

 菜穂子、
お前はO村で一人きりで
そういう森さんの死を知ったとき、
どんな異常な衝動を
受けたであろうか。

少くともこのときお前は
お前自身のことよりか私のことを、
――それから私が打ちのめされながら
じっとそれを耐えている、
見るに見かねるような様子を
半ば気づかいながら、
半ば苦々しく思いながら
一人で想像していたろうことは
考えられる。

……が、お前はそれに就いては
全然沈黙を守っており、
これまではほんの
申訣(もうしわけ)のように
書いてよこした
端書(はがき)の便りさえ
そのとききり書いて
よこさなくなってしまった。

私にはこのときはその方が
却って好かった。

自然なようにさえ思えた。

あの方がもう
お亡くなりになった上は、
いつかはあの方の事に就いても
お前と心をひらいて
語り合うことも出来よう。

――そう私は思って、
そのうち私達がO村ででも
一しょに暮らしているうちに、
それを語り合うに
最もよい夕のあることを信じていた。

が、八月の半ば頃になって
溜(た)まっていた用事が
片づいたので、
漸やっとの事で
O村へ行けるようになった私と
入れちがいにお前が
前もって何も知らせずに
東京へ帰って来てしまったことを
知ったときは、
流石(さすが)の私もすこし憤慨した。

そうして私達の不和も
もうどうにもならないところまで
行っているのを
その事でお前に
露わに見せつけられたような
気がしたのだった。

 平野の真ん中の
何処かの駅と駅との間で
互にすれちがった儘(まま)、
私はお前と入れ代って
O村で爺やたちを相手に
暮らすようになり、
お前もお前で、
強情そうに一人きりで生活し、
それからは一度もO村へ
来ようとはしなかったので、
それなり私達は秋まで
一遍も顔を合わせずにしまった。

私はその夏も殆ど
山の家に閉じこもった儘でいた。

八月の間は、
村をあちこちと二三人ずつ組んで
散歩をしている学生たちの
白絣姿(しろがすりすがた)が
私を村へ出てゆくことを
億劫(おっくう)にさせていた。

九月になって、
その学生たちが引き上げてしまうと、
例年のように霖雨(りんう)が来て、
こんどはもう出ようにも
出られなかった。

爺やたちも私があんまり
所在なさそうにしているので
陰では心配しているらしかったが、
私自身にはそうやって
病後の人のように暮らしているのが 一番好かった。

私はときどき爺やの留守などに、
お前の部屋にはいって、
お前が何気なく
そこに置いていった本だとか、
そこの窓から眺められるかぎりの
雑木の一本一本の
枝ぶりなどを見ながら、
お前がその夏この部屋で
どういう考えをもって
暮らしていたかを、
それ等のものから
読みとろうとしたりしながら、
何か切ないもので一ぱいになって、
知(し)らず識(し)らずの
裡(うち)に其処で長い時間を
過ごしていることがあった。……

(堀辰雄「菜穂子 楡の家 第二部」より)

ー

画像は、
信濃追分駅です。

1928年(昭和3年)、
上流階級の奥様の別荘生活。

家の管理も家事も、
全て爺やがやってくれるわけです。

そして追分宿は、
夏に勉強する学生たちの
避暑地になっていた
ことが分かります。

いずれにせよ、
アイルランド文学翻訳者で
歌人の片山廣子と
その娘総子(ふさこ)さんが
芥川龍之介の死に
衝撃を受けたのは
事実と思われるので、
堀は小説という形を借りて
残された人々の
苦しみを客体化しようと
したのかもしれません。

さらにもう一方踏み込むなら、
「片山廣子は
芥川の自死の要因ではない」
ということを
ゴシップ好きの世間に
訴えかける目的も
あったのではないか
という気もします。

撮影日20260310
投稿日20260921

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