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芥川龍之介「歯車」⑦高飛び

2026.08.19

【芥川龍之介「歯車」⑦高飛び】

僕は銀貨を一枚投げ出し、
(それは僕の持つてゐる
最後の一枚の銀貨だつた。)
この地下室の外へ
のがれることにした。

夜風の吹き渡る往来は
多少胃の痛みの薄らいだ
僕の神経を丈夫にした。

僕はラスコルニコフを思ひ出し、
何ごとも懺悔(ざんげ)したい
欲望を感じた。

が、それは僕自身の外にも、
――いや、僕の家族の外にも
悲劇を生じるのに違ひなかつた。

のみならずこの欲望さへ
真実かどうかは疑はしかつた。

若し僕の神経さへ
常人のやうに丈夫になれば、
――けれども僕はその為には
どこかへ行かなければならなかつた。
マドリツドへ、リオへ、
サマルカンドへ、……

 そのうちに或店の軒に吊つた、
白い小型の看板は
突然僕を不安にした。

それは自動車のタイアアに
翼のある商標を描いたものだつた。

僕はこの商標に
人工の翼を手(た)よりにした
古代の希臘(ギリシヤ)人を
思ひ出した。

彼は空中に舞ひ上つた揚句、
太陽の光に翼を焼かれ、
とうとう海中に溺死してゐた。

マドリツドへ、リオへ、
サマルカンドへ、
――僕はかう云ふ僕の夢を
嘲笑(あざわら)はない
訣(わけ)には行かなかつた。

同時に又復讐の神に追はれた
オレステスを
考へない訣にも行かなかつた。

(芥川龍之介「歯車 五 赤光」より)

画像は、
旧軽井沢の裏通りです。

ところで引用したのは、
非常に気になる部分です。

懺悔をすると
「僕自身の外にも、
――いや、僕の家族の外にも
悲劇を生じる」とは
一体どういうことでしょう。

恐らく
「芥川は変節した」と批判され、
本人だけでなく
家族や出版社なども
取り返しがつかないほどの
ダメージを受ける
という意味ではないかと
筆者は考えます。

なので、
これまでの節を
曲げることはできない。

しかしそのために、
当局からは目をつけられている。

いっそのこと
国外へ逃亡してしまえば、
自分を亡き者にしようとしている
連中の手からは
逃れられるのではないか。

芥川がここで
「マドリツドへ、リオへ、
サマルカンドへ」
と書いているのは、
そんな「高飛び」への願望が
あったからではないかと
筆者は想像します。

芥川が独身なら、
そうしていたかもしれません。

しかし妻子を置いて、
しかも義兄の死により
姉の家族の世話も
しなければならないのに
高飛びをするのは
芥川には無理だったことでしょう。

撮影日20230709
投稿日20230819

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