【芥川龍之介「歯車」⑥信仰】
或東かぜの強い夜、
(それは僕には善い徴しるしだつた。)
僕は地下室を抜けて往来へ出、
或老人を尋ねることにした。
彼は或聖書会社の屋根裏に
たつた一人小使ひをしながら、
祈祷や読書に
精進(しやうじん)してゐた。
僕等は火鉢に手をかざしながら、
壁にかけた十字架の下に
いろいろのことを話し合つた。
なぜ僕の母は発狂したか?
なぜ僕の父の事業は失敗したか?
なぜ又僕は罰せられたか?
――それ等の秘密を知つてゐる彼は
妙に厳おごそかな微笑を浮かべ、
いつまでも僕の相手をした。
のみならず時々短い言葉に
人生のカリカテユアを描いたりした。
僕はこの屋根裏の隠者を
尊敬しない訣(わけ)には
行かなかつた。
・・・中略・・・
「如何いかがですか、この頃は?」
「不相変あひかはらず神経ばかり
苛々(いらいら)してね。」
「それは薬では駄目ですよ。
信者になる気はありませんか?」
「若もし僕でもなれるものなら……」
「何もむづかしいことはないのです。
唯神を信じ、
神の子の基督キリストを信じ、
基督の行つた奇蹟を信じさへすれば……」
「悪魔を信じることは出来ますがね。……」
「ではなぜ神を信じないのです?
若し影を信じるならば、
光も信じずにはゐられないでせう?」
「しかし
光のない暗(やみ)もあるでせう。」
「光のない暗とは?」
僕は黙るより外はなかつた。
彼も亦僕のやうに
暗の中を歩いてゐた。
が、暗のある以上は
光もあると信じてゐた。
僕等の論理の異るのは
唯かう云ふ一点だけだつた。
しかしそれは少くとも僕には
越えられない溝に違ひなかつた。……
「けれども光は必ずあるのです。
その証拠には奇蹟があるのですから。
……奇蹟などと云ふものは
今でも度たび起つてゐるのですよ。」
「それは悪魔の行ふ奇蹟は。……」
「どうして又悪魔などと云ふのです?」
僕はこの一二年の間、
僕自身の経験したことを
彼に話したい誘惑を感じた。
が彼から妻子に伝はり、
僕も亦母のやうに
精神病院にはひることを
恐れない訣(わけ)にも行かなかつた。
(芥川龍之介「歯車 五 赤光」より)
ー
画像は、
軽井沢ショー記念礼拝堂です。
ところでドッペルゲンガーの
体験がある芥川は
幽的な感度が強く、
幻影あるいは物質化した悪魔を
見たことがあるのかもしれないと
筆者は想像します。
そして信仰という
武器を持たない彼は、
その恐怖に
取り込まれたのでは
ないでしょうか。
実際
芥川は遺稿である
「或阿呆の一生」の最後で、
以下のように絶叫しています。
「しかし神を信ずることは
――神の愛を信ずることは
到底彼には出来なかつた。
あのコクトオさへ信じた神を!」
晩年は
聖母や大天使らを描いた
大きな複製画を
私室に何枚も飾っていた堀辰雄との
決定的な違いが、
この点にあるのではないかと
筆者は思います。
それ故
芥川は、
聖なるものに
素直を心を開ける堀辰雄が
たまらなく羨ましかったのかも
しれないと筆者は想像します。











