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芥川龍之介「歯車」④長編小説

2026.08.16

【芥川龍之介「歯車」④長編小説】

前のホテルに帰つたのは
もう彼是十時だつた。

ずつと長い途を歩いて来た僕は
僕の部屋へ帰る力を失ひ、
太い丸太の火を燃やした
炉の前の椅子に腰をおろした。

それから僕の計画してゐた
長篇のことを考へ出した。

それは推古から明治に至る
各時代の民を主人公にし、
大体三十余りの短篇を
時代順に連ねた長篇だつた。

・・・中略・・・

けれども僕は夢の中に
或プウルを眺めてゐた。

そこには又男女の子供たちが
何人も泳いだりもぐつたりしてゐた。

僕はこのプウルを後ろに
向うの松林へ歩いて行つた。

すると誰か後ろから
「おとうさん」と僕に声をかけた。

僕はちよつとふり返り、
プウルの前に立つた妻を見つけた。

同時に又烈しい後悔を感じた。

「おとうさん、タオルは?」

「タオルは入らない。
子供たちに気をつけるのだよ。」

 僕は又歩みをつづけ出した。

が、僕の歩いてゐるのはいつか
プラツトフオオムに変つてゐた。

それは田舎の停車場だつたと見え、
長い生け垣のある
プラツトフオオムだつた。

そこには又Hと云ふ大学生や
年をとつた女も佇たたずんでゐた。

彼等は僕の顔を見ると、
僕の前に歩み寄り、
口々に僕へ話しかけた。

「大火事でしたわね。」

「僕もやつと逃げて来たの。」

 僕はこの年をとつた女に
何か見覚えのあるやうに感じた。

のみならず彼女と話してゐることに
或愉快な興奮を感じた。

そこへ汽車は煙をあげながら、
静かにプラツトフオオムへ
横づけになつた。

・・・中略・・・

しかし向うのロツビイの隅には
亜米利加(アメリカ)人らしい女が
一人何か本を読みつづけてゐた。

彼女の着てゐるのは遠目に見ても
緑いろのドレツスに違ひなかつた。

僕は何か救はれたのを感じ、
ぢつと夜のあけるのを
待つことにした。
長年の病苦に悩み抜いた揚句あげく、
静かに死を待つてゐる
老人のやうに。……

(芥川龍之介「歯車 三 夜」より)

画像は三笠通りにある、
精進場(しょうじんば)川です。

ところで
芥川龍之介「歯車」の
第三章の中で
主人公は
長編小説のプランを練っています。

芥川自身が
そのような小説の構想を
持っていたのでしょうか。

とてもこれから、
自殺をする人とは思えません。

さらに芥川は、
夢の中で見た
▼妻子
▼堀辰雄
▼片山廣子
と思われる人物
についても書いています。

ここで「大火事」から
逃げてきたという
会話が交わされています。

義兄が放火と保険金詐欺の嫌疑を
かけられて自殺していますから、
その辺りの事情を
堀辰雄と片山廣子は
よく知っていたのかもしれません。

そして第三章のラストには
「長年の病苦に悩み抜いた揚句あげく、
静かに死を待つてゐる
老人のやうに。……」
と記されています。

長編小説の構想がある一方、
悩み大きこの人生の終焉を願う
静かな心境も感じられます。

いずれにせよ
「或旧友へ送る手紙」に記された
「何か僕の将来に対する
唯ぼんやりした不安」
が理由で、
これから自殺をする人の
文章とは思えないのです。

芥川には
明確な生きる意志があったのに
それを諦める
のっぴきならない事情が
あったのではないかということが、
この第三章からは
伝わってくるのです。

撮影日20260709
投稿日20260816

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