MENU

お知らせ

News

堀辰雄「菜穂子 楡の家 第二部」⑩自己暗示

2026.09.27

【堀辰雄「菜穂子 楡の家 第二部」⑩自己暗示】

 が、お前が
そういう私の先を越して云った。

こんどは何か私に
突っかかるような
嗄(しゃ)がれ声だった。

「それでは、
お母様は森さんのことは
どうお思いになっていらっしゃるの?」

「森さんのこと? ……」

私はちょっと意外な問いに
戸惑いながら、
お前の方へ徐(しず)かに
目をもっていった。

「…………」

こんどはお前が
黙って頷うなずいた。

「それとこれとは、お前、全然……」

私は何んとなく
曖昧(あいまい)な調子で
そう云いかけているうちに、
急にいまのお前の
こだわったようなものの問い方で、
森さんが私達の不和の
原因となったと
お前の思い込んでいたものが
はっきりと分かったような気がした。

ずっと前に亡くなられた
お父様のことが
いつまでもお前の念頭から
離れなかったのだ。

あの頃のお前は
私というものがお前の考えている
母というものから
抜け出して行って
しまいそうだったので
気が気でなかったのだ。

それがお前の思い過ごしで
あったことは、
いまのお前ならよく分かるだろう。

けれども、
そのときは私もまた私で
お前にそれがそうであることを
率直に云ってやれなかった、
どうしてだかそんな事までが
自分の思うように
云えないように
事物をすこし込み入らせて
私は考えがちであった、
いわば私の唯一の過失は
そこにこそあったのだ。

いま、私はそれをお前にも、
また私自身にも
はっきりと云い聞かして
おかなければならないと思った。

「……いいえ、
そんな云いようはもうしますまい。
それは本当に
何でもない事だったのが
私達にはっきり
分かって来ているのですから、
何でもない事として云います。

森さんが私にお求めになったのは、
結局のところ、
年上の女性としての
お話し相手でした。

私なんぞのような世間知らずの女が
気どらずに申し上げたことが
反って何んとなく身にしみて
お感ぜられになっただけなのです。

それだけの事だったのが
そのときはあの方にも分からず、
私自身にも分からなかったのです。

それは只の話し相手は話し相手でも、
あの方が私にどこまでも
一個の女性としての相手を
望まれていたのが
いけなかったのでした。

それが私をだんだん窮屈に
させていったのです。……」

そう息もつかずに云いながら、
私はあんまり暖炉の火を
まともに見つづけていたので、
目が痛くなって来て、
それを云い終るとしばらく
目を閉じていた。

再びそれを開けたときは、
こんどは私はお前の顔の方へ
それを向けながら、

「……私はね、菜穂子、
この頃になって漸(や)っと
女ではなくなったのよ。

私は随分そういう年になるのを
待っていました。

……私は自分がそういう年に
なれてから、
もう一度森さんに
お目にかかって
心おきなくお話の相手をして、
それから最後のお分かれを
したかったのですけれど……」

(堀辰雄「菜穂子 楡の家 第二部」より)

ー

画像は、
夕暮れの浅間山です。

ところで引用したのは、
楡の家 第二部のクライマックス
とも言うべき場面。

森さんについて問われた、
三村夫人の答えです。

夫人は森さんに対して
女としてときめいた瞬間が
あったはずですが、
それを頑なに否定します。

一種の自己暗示のようなものですが
夫人本人はそのことに
気づいておらず、
菜穂子だけが
「そうではない」ことを
認識しています。

菜穂子は森さんが
一線を越えようとしなかったのは、
より大きな森さんの愛情だ
ということも理解していたのでしょう。

一方
そうした森さんの気持ちにも、
そして自分自身の
本当の気持ちにも無頓着な母に
菜穂子は心底
うんざりしているようです。

こうした女心を、
堀辰雄は実に上手く書いています。

楡の家は
芥川龍之介と片山廣子
並びに娘の総子さんがモデルですが、
このやりとりは
堀辰雄の創作でしょう。

作家としての本領発揮、
と言える場面です。

撮影日20260403
投稿日20260927

Pickup Site

ピックアップ