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芥川龍之介「歯車」②義兄

2026.08.14

【芥川龍之介「歯車」②義兄】

僕は給仕の退いた後、
牛乳を入れない
珈琲(コオヒイ)を飲み、
前の小説を仕上げにかかつた。

凝灰岩(ぎようくわいがん)を
四角に組んだ窓は
雪のある庭に向つてゐた。

僕はペンを休める度に
ぼんやりとこの雪を眺めたりした。

雪は莟(つぼみ)を持つた
沈丁花(ぢんちやうげ)の下に
都会の煤煙(ばいえん)に
よごれてゐた。

それは何か僕の心に
傷(いた)ましさを
与へる眺めだつた。

僕は巻煙草をふかしながら、
いつかペンを動かさずに
いろいろのことを考へてゐた。

妻のことを、
子供たちのことを、
就中(なかんづく)
姉の夫のことを。……

 姉の夫は自殺する前に
放火の嫌疑を蒙(かうむ)つてゐた。

それも亦
実際仕かたはなかつた。

彼は家の焼ける前に
家の価格に二倍する
火災保険に加入してゐた。

しかも偽証罪を犯した為に
執行猶予中の体になつてゐた。

けれども僕を不安にしたのは
彼の自殺したことよりも
僕の東京へ帰る度に
必ず火の燃えるのを見たことだつた。

僕は或は汽車の中から
山を焼いてゐる火を見たり、
或は又自動車の中から
(その時は妻子とも一しよだつた。)
常磐橋ときはばし
界隈(かいわい)の火事を
見たりしてゐた。

それは彼の家の焼けない前にも
おのづから僕に
火事のある予感を
与へない訣わけには行かなかつた。

「今年は家が
火事になるかも知れないぜ。」

「そんな縁起の悪いことを。
……それでも火事になつたら
大変ですね。
保険は碌(ろく)に
ついてゐないし、……」

 僕等はそんなことを
話し合つたりした。

しかし僕の家は焼けずに、
――僕は努めて妄想を押しのけ、
もう一度ペンを動かさうとした。

が、ペンはどうしても
一行とは楽に動かなかつた。

(芥川龍之介「歯車 ニ 復讐」より)

画像は、
追分から見る
夕暮れの森と金星です。

ところで引用した箇所で主人公は、
鉄道自殺した
義兄の為したことについて
説明しています。

実際芥川龍之介の姉の夫も
放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられ、
鉄道自殺しています。

この部分は、
事実に基づいているのでしょう。

さらに芥川には、
何らかの
「火事にまつわる不穏な予感」
があったのかもしれません。

義兄の自殺により
芥川には、
義兄の借金と
その家族の面倒をみるという
負担ものしかかります。

しかしなぜ、
義兄はそのような
暴挙に出たのでしょう。

以下は筆者の単なる推測ですが、
もしかすると義兄に
保険金詐欺と放火をそそのかした
第三者がいるのではないかと
思います。

「確実に大金を受け取れるぞ」
と言って。

それが単なる詐欺師ではなく、
当局から
意図的に送り込まれた
人物だとしたらーー。

芥川は、
そのように考えていた
のではないでしょうか。

その目的が、
「芥川を追い詰めること」
だとしたらどうでしょう。

芥川本人には
なかなか手出しが出来ないので、
周りの人間を破滅させることで
芥川に圧力をかけていたのでは
ないでしょうか。

もしそうだとして
それに芥川が
気づいていたのだとしたら、
この先さらに
誰に対し
どんな仕打ちが
あるか分からないという
不安に苛まれたのでは
ないでしょうか。

芥川は
「或旧友へ送る手記」の中で、
自殺の理由について
以下のように書いています。

「少くとも僕の場合は
唯ぼんやりした不安である。
何か僕の将来に対する
唯ぼんやりした不安である。」

具体的に
どのようなことが起こるかは
分からなくても、
確実に
魔の手は伸びてきているーー
芥川はそのように
感じていたのではないかと
筆者は想像します。

撮影日20260310
投稿日20260814

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