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堀辰雄「美しい村」㉖「暗い道」卒業

2026.08.08

【堀辰雄「美しい村」㉖「暗い道」卒業】

……いつのまにやら
もうすっかり日が暮れていた。

私たちの歩いている道の両側の
落葉松などが伸び切って、
すこし立て込んでいたりすると、
私はほとんど彼女の着ている
ワンピイスの薔薇色(ばらいろ)さえ
見さだめがたい位であった。

ただときどき彼女の肩が
私の肩にぶつかるので、
自分の傍に彼女を近ぢかと
感じながら歩いていた。

そうかと思うと、
木立の間からだしぬけに
その奥にあるヴィラの灯(あかり)が
下枝(したえ)ごしに
私たちの肩に落ちて来て、
知らず識(し)らずに
身をすり寄せていた私たちを
思わず離れさせた。

――そんなヴィラの数が
だんだん増え出して来たらしいことが、
いくらか私たちをほっとさせていた。……
 
突然、私は心臓を
しめつけられたように立ち止まった。

私はそれらのヴィラに
見覚えがあり出すのと同時に、
これをこのまま行けば、
私がこの日頃そこに近寄るのを
努めて避けるようにしていた、
私の昔の女友達の別荘の前を
通らなければならないことを
認めたのだ。

そして私は、
その一家のものが二三日前から
この村に来ていることを
宿の爺やから聞いて
知っていたのだ。

しかしもうさんざん彼女を
引っ張りまわした
挙句あげくだったし、
私もかなり歩き疲つかれていたので、
この上廻り道をする気にはなれずに、
私は心ならずもその別荘の前を
通り抜けて行くことにした。

……だんだんその別荘が
近づいて来るにつれ、
私はますます
心臓をしめつけられるような
息苦しさを覚えたが、
さて、いよいよその別荘の
真白な柵が私たちの前に
現われた瞬間には、
その柵の中の灯りの
一ぱいに落ちている芝生の向うに、
すっかり開け放した窓枠の中から、
私の見覚えのある
古い円卓子(まるテエブル)の
一部が見え、
その上には、
人々が食事から立ち去ってから
まだ間もないと言ったように、
丸められたナプキンだの、
果物の皮の残っている皿だの、
珈琲茶碗(コオヒイぢゃわん)だのが、
まだ片づけられずに散らかったまま、
まぶしいくらい洋燈ランプの
光りを浴びて
きらきらと光っているのを、
私は自分でも意外なくらいな
冷静さをもって認めることが出来た。

(堀辰雄「美しい村」より)

画像は、
茂沢(もざわ)から望む金星です。

ところで引用したのは、
1934年3月に発表された
「美しい村」の第4部
「暗い道」です。

主人公と少女は、
もうすっかり
恋人同士として
夕暮れの道を散策しています。

そして主人公が失恋した
お嬢さんとその母の住む
別荘を前を
図らずも主人公らは
通ることになります。

最初は心臓がしめつけられる
ように感じていた主人公ですが、
案外冷静に通り過ぎます。

主人公は、
過去の恋から卒業したようです。

堀辰雄も
矢野綾子さんとの出会いにより、
片山廣子の娘の
総子(そうこ)さんへの思いが
薄れてきたのでしょう。

「美しい村」第3部の夏は、
前年10月に発表されています。

ことの顛末を知りたくて
うずうずしていた
堀文学のファンたちは、
これを読んで
堀に密かなエールを
送ったことでしょう。

撮影日20260403
投稿日20260808

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