【堀辰雄「美しい村」㉕「夏」少女との散策】
私の「美しい村」は
予定よりだいぶ遅れて、
或る日のこと、
漸(や)っと脱稿した。
すでに七月も
半ばを過ぎていた。
そうして私はそれを書き上げ次第、
この村から
出発するつもりであったのに、
私はなおも、
そういう一人の少女のために、
一日一日と私の出発を延ばしながら、
私がその物語の背景に使った、
季節前の、
気味悪いくらいにひっそりした
高原の村が、
次第次第に夏の季節シイズンにはいり、
それと同時にこの村にも
ぽつぽつと避暑客たちが
這入り込んでくるのを、
私は何んだか
胸をしめつけられるような気持で、
目(ま)のあたりに迎えていた。
私はしばしばその少女と連れ立って、
夕食後など、宿の裏の、
西洋人の別荘の多い水車の道の
あたりを散歩するようになっていた。
・・・中略・・・
私たちとすれちがいながら、
私たちに好奇的な
眼(まな)ざしを投げてゆく、
散歩中の人々や、
自転車に乗った人々などが
だんだんに増えて来た。
それらの中には
私と顔見知りの人たちなども
雑(まじ)っていた。
私はいつかこんなところを
ひょっくり昔の女友達にでも
出会いはしないかと
一人で気を揉もんでいたが、
ときどき、そんな散歩の途中に、
ふと向うからやってくる
人々のうちに
遠見がどこかそれらに
似たような人があったりすると、
私は慌あわてて、
その人たちを避さけるために、
道もないような草の茂しげみのなかへ
彼女を引っ張りこんで、
何んにも知らない彼女を
駭(おどろ)かせるような
こともあった。
(堀辰雄「美しい村」より)
ー
2026年7月日、
画像は
水車の道です。
ところで
「美しい村」において、
主人公と少女は
恋人同士になります。
ただ主人公の
過去の恋と現在の恋の双方が
軽井沢を舞台としているため、
様々な気苦労があります。
かなりの部分が
堀辰雄の実体験に
基づいていると思われますが、
堀辰雄の公開プロポーズ
さながらである
「美しい村」第3部の「夏」は
1933年10月に発表。
堀辰雄は翌年9月に、
矢野綾子さんと
婚約しました。










