【堀辰雄「美しい村」㉔「夏」新しい幸福】
……そういう花のすっかり無くなった
野薔薇をしばらく前にしながら、
私はいつか知らず識(し)らずに、
それらの白い小さな花のように
何処へともなく私から去っていった
少女たちのことを思い出していた。
……この頃、ともすると、
一人の新しい少女のために、
そんな昔の少女たちのことを
忘れがちであったが、
そう言えば、
彼女たちがこの村に
おいおいとやって来る時期も
もう間ぢかに迫せまっているのだ。
彼女たちが来ないうちに
私はこの村をさっと
立ち去ってしまった方がいい。
そうしなくっちゃいけない。
――そう自分で自分に
言って聞かせるようにしながら、
その一方ではまた、
この頃やっと自分の手に
這入(はい)りかけている
新しい幸福を、
そうあっさりと見棄てて
行けるだろうかどうかと疑っていた。
そうして私は自分の気持を
そのどちらにも
片づけることが出来ずに、
自分で自分を持て余しながら、
かれこれ一時間近くも
その山径をさまよっていた。
そうしてその挙句、
私がやっと気がついた時には、
そんな風に歩きながら
自分でも知らずに何度も
指で引張っていたものと見えて、
私の鼠色(ねずみいろ)の
ジャケツの肩のところに出来た
その小さな綻(ほころ)びは、
もう目立つくらいに
大きくなっていた。
――私はとうとう
踵(きびす)を返して、
再び渓流づたいに
その山径を下りてきた。
そうして私は自分の行く手に、
真っ白な、小さな橋と、
一本の大きな蝙蝠傘のような
樅の木を認めだすと、
私はすこし歩みを緩ゆるめながら、
わざと目をつぶった。
その木蔭(こかげ)になって
見えずにいるものを、
私のすぐ近くに、不意に、
思いがけぬもののように
見出みいだしたかったのだ。
……とうとう私は
我慢(がまん)し切れずに
私の目を開けてみた。
しかし彼女は私からまだ
十数歩先きのところにいた。
(堀辰雄「美しい村」より)
ー
画像は、
離山のアケボノスミレです。
ところで失恋から立ち直る
最良の薬は、
「新たな恋」なのだと分かります。
目を開けたら
大好きな少女が
目の前にいる体験をしたい、
という少女マンガのような行動を
何のてらいも無く書くところが
堀辰雄らしさ。
人間的にも穏やかで、
皆から愛されたというのが
にじみ出る文体です。











