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堀辰雄「美しい村」㉓「夏」野薔薇の復讐

2026.08.05

【堀辰雄「美しい村」㉓「夏」野薔薇の復讐】

そんな村の地図を手にして、
彼女がひとりで
散歩がてら見つけて来た、
或るささやかな渓流のほとりの、
蝙蝠傘(こうもりがさ)のように
枝を拡げた、
一本の樅もみの木の下に、
彼女が画架がかを据すえている間、
私はその画架の傍(そば)から、
数本のアカシアの枝を透しながら
くっきりと見えている、
程ほど遠くの、
真っ白な、小さな橋を
はじめて見でもするように
見入っていた。

それは六月の半ば頃ころ、
私が峠から一緒に下りてきた
二人の子供たちと別れた、
あの印象の深い小さな橋であった。

――私は、彼女がしゃがみながら、
パレットへ絵具を
なすりつけ出すのを見ると、
彼女の仕事を妨げることを恐れて、
其処そこに彼女をひとり残したまま、
その渓流に沿うた小径を
ぶらぶら上流の方へと歩いて行った。

しかし私は絶えず
私の背後に残してきた彼女にばかり
気をとられていたので、
私の行く手の小径の曲り角の向うに、
一つの小さな灌木が、
まるで私を
待ち伏ぶせてでもいたように
隠かくれていたのに
少しも気づかずに、
その曲り角を無雑作に
曲ろうとした瞬間、
私はその灌木の枝に
私のジャケツを引っかけて、
思わずそこに足を止めた。

見ると、
それは一本の花を失った
野薔薇だった。

私はやっとのことで、
その鋭(するど)い棘(とげ)から
私のジャケツをはずしながら、
私はあらためてその
花のない野薔薇を眺めだした。

それが白い小さな花を
一ぱいつけていた頃には、
あんなにも私がそれで
楽しんでいた癖に、
それらの花がひとつ残らず
何処かに立ち去ってしまった今は、
そんな灌木のあることにすら
全然気づこうとしなかった私に対して、
それが精一杯の復讐をしようとして、
そんな風に私のジャケツを
噛み破ったかのようにさえ
私には思えた。

(堀辰雄「美しい村」より)

画像は
離山山頂直下からの
アヅマシャクナゲと浅間山です。

ところで
「美しい村の場面はいきなり、
デートのシーンとなります。

とはいえ
少女の創作活動に、
主人公が付いてきただけですが。

それでも物語は、
一挙に進展。

白い野薔薇を慈しむことで
失恋の痛みを癒していた
ついこの間と
現在の心境との違い。

そして花期の後は
知らん顔をしていた野薔薇で
服を破いたことを、
堀辰雄は「野薔薇の復讐」という
面白い表現で
書いています。

撮影日20250513
投稿日20260805

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