【堀辰雄「美しい村」⑳「夏」唇】
しかし私は
最初のうちはその少女を、
唯、そんな風に私の窓からだの、
或(ある)いは
廊下などでひょっくり
擦れちがいざま、
目と目とを合わせないようにして、
そっと偸(ぬす)み見ていた
きりであった。
そんな具合で、
私は彼女の顔を、
まだ一度も、
まともに眺ながめたことがなく、
それに私の見たときは、
いつも静止していないで、
しかもそれぞれに
異った角度から
光線を受けていたせいか、
見る度(たび)毎(ごと)に、
その顔は変化していた。
或る時は、
そのやや真深かにかぶった
黄いろい
麦藁帽子(むぎわらぼうし)の下から、
その半陰影のなかに
それだけが顔の他の部分と
一しょに溶け込こもうとしないで、
大きく見ひらかれた眼が、
きらきらと輝かがやいていた。
またそんな帽子をかぶらずに、
庭園の中などで
顔いっぱいに強い光線を浴びながら、
まぶしそうにその眼を
半分閉ざしているおかげで、
平生の特徴を半分失いながら、
そしてその代りに
その瞬間まで
ちっとも目立たないでいた
脣(くちびる)だけが
苺(いちご)のように
鮮あざやかに光りながら、
ほとんど前のとは
別の顔に変ってしまうこともあった。
(堀辰雄「美しい村」より)
ー
画像は軽井沢の随所に咲く、
シモツケです。
ところで引用したのは、
堀辰雄「美しい村」の
第3部「夏」。
堀辰雄が
矢野綾子さんに
徐々に惹かれてゆく心理が、
胸の高まり共に
書かれています。
読者を
恋愛擬似体験させるかのような
繊細な表現は、
堀文学の醍醐味とも
言えるでしょう。










