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堀辰雄「美しい村」⑱「夏」片山母娘

2026.07.31

【堀辰雄「美しい村」⑱「夏」片山母娘】

その日の夕方の、
別館の方への私の引越ひっこし、
(今まで私の一人で暮らしていた、
古い離れが修繕され始めるので――)
その次ぎの日の、
その少女の父の出発、
それから他にはまだ
一人も滞在客のないそんな別館での、
その少女と二人っきりの、
背中合わせの暮らし……。

 しかし私は毎日のように、
ほとんど部屋に閉じこもったきりで、 自分の仕事に没頭していた。

その私の書きつつある
「美しい村」という物語は、
六月頃から
この村に滞在している私が、
そんなまだ季節はずれの、
すっからかんとした高原で
出会ったことを、
それからそれへと
書いて行ったものだった。

そうして私は丁度いま、
私がそれまで昔の恋人に対する
一種の顧慮(こりょ)から、
その物語の裏側から、
そして唯、
それによってその淡々とした物語に
或る物悲しい陰影ニュアンスを
与えるばかりで
満足しようとしていた、
この村での数年前の
彼女たちとの花やかな交際の思い出、
ことにこの村での
彼女たちとの最初の
歓(よろこ)ばしい出会いを、
とある日、
道ばたに咲き揃そろっている
野薔薇のばらの花が
まざまざと私のうちに
蘇よみがえらせ、
それが遂に
思いがけぬ出口を見つけた
地下水のように、
その物語の静かな表面に
滾々(こんこん)と
湧わきあがってくるところを
書き終えたばかりのところだった。

そうしてそういう昔の
さまざまな歓ばしい
出会いの追憶に
耽(ふけ)っている暇もなく、
すでに私から巣立っていった
それらの少女たち、
ことにそのうちの一人との
気まずい再会を恐れて、
季節に先立ってこの村を
立ち去ろうとする、
そんな私の悲しい決心を、
その物語の結尾として、
私はこれから書こうと
しているところだった。

(堀辰雄「美しい村」より)

画像は軽井沢の随所に咲く
ヤマホタルブクロです。

ところで引用したのは、
堀辰雄「美しい村」
第3部「夏」。

これは小説とは言え、
堀辰雄が
「気まずい再会」を恐れているのは
アイルランド文学者片山廣子の娘の
総子(そうこ)さんと思われます。

堀辰雄は
片山母娘が
つるや旅館の北西140m
ほどのところにある別荘に来る前に、
軽井沢を離れるつもり
だったということでしょう。

撮影日20250628
投稿日20260731

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