【堀辰雄「美しい村」⑦「美しい村」老医師】
その翌朝は、
霧がひどく巻いていた。
私はレエンコートをひっかけて、
まだ釘づけにされている
教会の前を通り、
その裏の橡(とち)の林の中を
横切って行った。
・・・中略・・・
さて、その土手道へ
差しかかろうとした途端、
私はふと立ち止まった。
私の行く手に何者かが
異様な恰好で
うずくまっているのが
仄見(ほのみ)えたので。
・・・中略・・・
漸っとそれが
蝙蝠傘(こうもりがさ)の下で、
或る小さな灌木(かんぼく)の上に
気づかわしげに
身を跼(こご)めている、
西洋人らしいことが
私には分かり出した。
もっと霧が薄らいだとき、
私はその人の見まもっているのが
私の見たいと思っていた
野薔薇の木らしいことまで分かった。
・・・中略・・・
――やっとその人影は身を起し、
蝙蝠傘をちょっと持ちかえてから
歩き出した。
そうしてずんずん霧のなかに
暈(ぼや)けて行った。
私も歩き出しながら、
やっとその野薔薇の
小さな茂しげみの前に達した。
そうして今しがたその人の
していたような難しい姿勢を
真似ながら、
その上に身を跼(こご)めてみた。
そうすればその人の心の状態までが
見透かされでもするかのように。
その小さな茂みは
まだ硬かたい小さな莟(つぼみ)を
一ぱいにつけながら、
何か私に訴えでもしたいような
眼つきで私を見上げた。
私は知らず識(し)らずの裡(うち)に
それらの莟を根気よく数えたり、
そっと持ち上げてみたりしている
自分自身に気がついた。
ふとさっきの人のしていた
異様な手つきが
まざまざと蘇った。
そうしてその小さな茂みが
マイ・ミクスチュアらしい香りを
漂わせているのに
気がついたのも
それと殆(ほと)んど同時だった。
湿った空気のために
何時(いつ)までも
そのこんがらかった枝に
からみついて消えずにいる
その香りは、
まるでその小さな茂みそのものから
発せられているかのように思われた。
――私はいつもパイプを
口から離したことのない
レエノルズさんのことを思い出した。
そして今の人影は
その老医師にちがいないと思った。
そう言えば、
さっきから向うの方に霧のために
見えたり隠かくれたりしている
赤茶けたものは、
そのサナトリウムの建物らしかった。
(堀辰雄「美しい村」より)
ー
画像は、
矢ヶ崎川と
サナトリウムレーンです。
この道沿いに、
軽井沢サナトリウムがありました。
堀辰雄が書いた
レエノルズさんとは、
そのサナトリウムの院長であった
イギリス人の
ニール・ゴードン・マンロー医師が
モデルになっているとされます。
マンロー医師は考古学者であり、
かつ人類学者でもありました。
1923年の関東大震災により
横浜の自宅が焼けたので、
軽井沢に移住。
貧しい人たちからは、
治療費は取らないという人物でした。
10年後の1933年には
4人目の妻と共に
北海道に移住し
アイヌ民族の研究や
結核治療に心血を注ぎましたが、
夏は軽井沢に戻り
診療を行ったそうです。
堀辰雄が軽井沢に長期滞在したのも
そして後に
堀と婚約する矢野綾子さんが
軽井沢に静養に来たのも、
もしかすると軽井沢には
サナトリウムがあるため
いざ何かあったとき
駆け込むところがある
という安心感が
あったからかもしれません。
となるとマンロー医師が
軽井沢に転居していなかったら、
堀辰雄は矢野綾子さんと
出会っていなかったのかも
しれないのです。
ー
◾️小泉正人さまのコメント
叔母の自費出版した随筆の中に
マンロー病院のことや
マンロー先生のことが
書いてありました。
母(私の祖母)がお産で
お世話になったこと
自宅まで雪の中を往診してくれたこと、金のない人も診てくれたこと、
広い原っぱの中に建っていた
木造の赤塗りの病院だったこと、
病院からクレゾールの臭いが
していたこと、
病院の道を隔てた裏には
外人用の野球場が
有ったことなどなど・・・
今の軽井沢とは少し風景が
違っていたようですね!












