【堀辰雄「美しい村」②「序曲」失恋】
あなた方は何時頃(いつごろ)
こちらへいらっしゃいますか?
僕はほとんど毎日のように
あなたの別荘の前を通ります。
通りすがりにちょっと
お庭へはいってあちらこちらを
歩きまわることもあります。
昔むかしはあんなに草深かったのに、
すっかり見ちがえる位、
綺麗(きれいな)な芝生に
なってしまいましたね。
それに白い柵などを
おつくりになったりして。
……何んだかあなたの別荘の
お庭へはいっても、
まるで他ほかの別荘の庭へ
はいっているような気がします。
人に見つけられはしないかと、
心臓がどきどきして来てなりません。
どうしてこんな風に
お変えになってしまったのか、
本当におうらめしく思います。
ただ、あなたと其処(そこ)でよく
お話したことのある
ヴェランダだけは、
そっくり昔のままですけれど……
ああ、また、僕はなんだか
悲しそうな様子をしてしまった。
しかし、僕は本当はそんなに
悲しくはないんですよ。
だって僕は、
あなた方さえ知らないような
生の愉悦(ゆえつ)を、
こんな山の中で
人知れず味わっているんですもの。
でも一体、
何時ごろあなた方は
こちらへいらっしゃるのかしら?
あなた方とはじめて
知り合いになったこの土地で、
あなた方ともう
見知らない人同志のように
顔を合せたりするのは、
大へんつらいから、
僕はあなた方のいらっしゃる前に、
この村を出発しようかと思います。
どうぞその日の来るまで
僕にも此処(ここ)にいることを、
そしてときどき誰も見ていないとき、
あなたの別荘のお庭
をぶらつくことをお許し下さい。
(堀辰雄「美しい村」より)
ー
画像は湯川ふるさと公園です。
ところで堀辰雄の
「美しい村」は、
▼序曲
▼美しい村
▼夏
▼暗い道
の4部作です。
前回と今回引用した「序曲」は、
1933年(昭和8年)6月に
「山からの手紙」として
発表されました。
堀は同年6〜9月、
軽井沢のつるや旅館に
滞在しています。
この作品は「あなた方」と
手紙で呼びかける形を
とっていますが、
相手のモデルは
片山廣子・総子(そうこ)の
母娘でしょう。
堀辰雄はどうやら
総子さんに失恋したようで、
つるや旅館の北西
140m辺りにあった
片山廣子の別荘の前を通る度に
感傷的な気分になっていたようです。
堀辰雄はあくまでも
フィクションの小説家ですが
登場人物には
分かりやすいモデルがいるので、
1904年生まれの堀辰雄より
3歳年下の片山総子さんにとっては
私生活を暴かれるような
複雑な気持ちだったに
違いありません。









