【芥川龍之介「歯車」と堀辰雄】
僕は頭痛のはじまることを恐れ、
枕もとに本を置いたまま、
○・八グラムの
ヴェロナアルを嚥(の)み、
とにかくぐっすり眠ることにした。
けれども僕は夢の中に
或プウルを眺めていた。
そこには又男女(なんにょ)の
子供たちが何人も
泳いだりもぐったりしていた。
僕はこのプウルを後ろに
向うの松林へ歩いて行った。
すると誰か後ろから
「おとうさん」と僕に声をかけた。
僕はちょっとふり返り、
プウルの前に立った妻を見つけた。
同時に又烈しい後悔を感じた。
「おとうさん、タオルは?」
「タオルはいらない。
子供たちに気をつけるのだよ」
僕は又歩みをつづけ出した。
が、僕の歩いているのはいつか
プラットフォオムに変っていた。
それは田舎の停車場だったと見え、
長い生け垣のある
プラットフォオムだった。
そこには又Hと云う大学生や
年をとった女も佇んでいた。
彼等は僕の顔を見ると、
僕の前に歩み寄り、
口々に僕へ話しかけた。
「大火事でしたわね」
「僕もやっと逃げて来たの」
僕はこの年をとった女に
何か見覚えのあるように感じた。
のみならず彼女と話していることに
或愉快な興奮を感じた。
そこへ汽車は煙をあげながら、
静かにプラットフォオムへ
横づけになった。
僕はひとりこの汽車に乗り、
両側に白い布を垂らした
寝台の間を歩いて行った。
すると或寝台の上に
ミイラに近い裸体の女が
一人こちらを向いて横になっていた。
それは又僕の復讐の神、
――或狂人の娘に違いなかった。……
僕は目を醒さますが早いか、
思わずベッドを飛び下りていた。
(芥川龍之介「歯車」より)
ー
7月6日午前8時、気温15.3℃、雨。
濃霧のため旧中山道
碓氷峠への赤バスは運休です。
画像は、
春の信濃追分駅です。
引用した「歯車」は、
自殺に至るまでの
不気味な幻想を書いた
芥川龍之介晩年の代表作。
執筆は1927年3〜4月と
考えられているので、
自殺する4ヶ月ほど前
ということになります。
この小説の中で主人公は
▼妻、
▼大学生H、
▼年をとった女、
▼狂人の娘
の夢を次々に見ます。
それぞれ
▼妻は芥川文(ふみ)さん
▼大学生Hは堀辰雄
▼年をとった女は
アイルランド文学翻訳者で
14歳年上の片山廣子
▼狂人の娘は
不倫相手だった秀しげ子
がモデルになっていると
考えられます。
▼妻には後悔を感じ、
▼片山廣子には
或愉快な興奮を感じ、
▼復讐の鬼神と化した
秀しげ子には
恐怖を感じていた
ということでしょうか。
そんな中、
堀辰雄があたかも
片山廣子の
「添え物」であるかのように
登場するのが印象的です。
18歳のときに
関東大震災(1923年)で
母を失った堀辰雄は
26歳年上の片山廣子を
母のように慕い、
片山廣子も堀辰雄を息子のように
可愛がっているーー
芥川龍之介は2人のことを
そんな目で
見ていたのかもしれないと、
筆者は想像します。
「田舎の停車場」というのは、
芥川が特に好きだった信濃追分駅
あるいは軽井沢駅のことではないか
と思います。










