【堀辰雄「恢復期」①諏訪湖の老人】
夜の明ける前、
彼はS湖で下車した。
其処(そこ)からまた、
彼の目的地であるところの
療養所のある高原までは
自動車に乗らなければ
ならなかった。
途中で彼は、
その湖畔にある一つの
みすぼらしいバラック小屋の前に
車を止めさせた。
そこには、
もと彼の家で
下男をしていたことのある
一人の老人が住んでいた。
その老人は
もう七十位になっていた。
そうしてもう十何年というもの、
この湖畔の小屋に
まったく一人きりで
暮しているのだった。
ときどき神経痛のために
半身不随になるということを
聞いていたが、
そんな時は一人で
どうするのだろうと、
その老衰した様子を見ながら
彼は思った。
「それにしても、
何故こんなにまでなりながら
生きていなければ
ならないのかしら?」
そういう今の自分には
よく解(わか)らないような疑問が
ふと彼の心を曇らせた。
そのバラック小屋の窓からは、
古画のなかの
聖母の青衣のような色をした、
明けがたの湖水が、
ほんのりと浮んで見えた。
――老人はいつか彼の前に
古びた聖書を開いていた。
そうして彼のために
熱心な祈祷(きとう)をしだした。
だが彼はそれには
別に耳を貸そうともしないで、
ただ不思議そうに、
老人の手にしていた
聖書の背革(せがわ)が
傷いたんでいると見えて
一面に膏薬(こうやく)
のようなものが貼はってあるのや、
その老人の
ぶるぶる顫(ふる)えている
手つきが何となく
鶏の足に似ているのを
眺ながめていた。
そしてその二つのものは
聖書の文句よりも
彼の心に触れた。
まるで執拗(しつよう)な
「生」そのものの
象徴ででもあるように。
(堀辰雄「恢復期(かいふくき)」より)
ー
6月25日午前8時、
気温15.2℃、小雨。
濃霧のため旧中山道
碓氷峠への赤バスは運休です。
画像は
「恢復期(かいふくき)」
で書かれている諏訪湖と、
左の彼方に北アルプスの
鹿島槍や白馬岳一帯の峰々です。
守屋山(1651m)山頂からの、
眺めです。
ところで
1904年(明治37年)
生まれの堀辰雄は
1923年(大正12年)8月、
19歳のとき
室生犀星に連れられて
軽井沢を訪れます。
しかしその年9月の
関東大震災で、
母が水死。
隅田川を泳いで
母を探し回った堀は
肋膜炎にかかり、
第一高等学校理科乙類(ドイツ語)
を休学します。
1925年(大正14年)
堀は東大文学部国文科に入学し
夏は軽井沢を訪れる
暮らしを続けていましたが、
1927年(昭和2年)には
師と仰いだ芥川龍之介が自殺。
「芥川龍之介全集」
の編纂に従事する中
1928年(昭和3年)1月、
心身の疲労がたたって
肋膜炎を再発し
瀕死となって大学を休学します。
卒業後の
1930年(昭和5年)秋に
「聖家族」を書き上げますが、
その直後に喀血し
1931年には
富士見町の
富士見高原療養所(サナトリウム)で
4月から3ヶ月にわたり
転地療養しました。
その後
8月から10月にかけて
軽井沢に滞在して書き上げたのが、
この「恢復期」です。
「恢復期」の中で
東京から夜行に乗った
主人公の「彼」は
富士見駅で降りるのではなく、
わざわざ諏訪湖まで乗って
旧知の老人を訪ねています。
そこで老人に祈ってもらったことが、
物語の冒頭に
なっているのです。
ただ主人公の「彼」は
その老人の祈りに
さほどありがたみを
感じていないのですが、
堀は明け方の諏訪湖を
あえて「聖母の青衣」と
書いています。
そこに堀の、
秘めたる思いを
見てとることができます。












