【軽井沢の室生犀星と津村信夫】
小扇 津村信夫
―嘗つてはミルキイ・ウエイと呼ばれし少女に―
指呼すれば、
国境はひとすぢの白い流れ。
高原を走る夏期電車の窓で、
貴女は小さな扇をひらいた。
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草むら 津村信夫
落葉松(からまつ)の林の中を
たどってゆくうち、
私はちょっと旅人めいた
気持ちもした。
そんな林を
二つばかりぬけて出ると、
もう火の山は、
真正面によく見晴らされた。
「浅間嶺にけむりたつ見ゆ」
といったような古歌だって、
まんざらないわけでもない。
山のけむりは、
今日は少しも動かなくて、
青く澄んだ夏の空に、
その夢のような重みを
ぴったりと、
もたせかけている。
ー
6月16日午前8時、
気温は15.7℃、久々の晴れ。
画像は茂沢南石堂遺跡付近から
浅間山を眺めたものです。
神戸出身の
詩人津村信夫は
軽井沢で室生犀星に出会い、
生涯の師と仰ぎます。
犀星は信夫との出会いの場面を、
「我が愛する詩人の伝記」で
以下のように書いています。
「まだ白面豊頬(ほうきょう)の青年で
慶応の学帽をかむり、
いつも濶達(かったつ)に
大声で談笑した青年であった」
津村信夫の父 津村秀松は法学博士で、
兄の秀夫は映画評論家。
津村一家は犀星一家と、
家族ぐるみの付き合いをしていました。
父の秀松博士は軽井沢では
三笠ホテルに泊まり
信夫は鶴屋旅館を定宿としていましたが、
そのまま宿代を払わずに帰ると
「後から秀松博士が来沢された折に、
支払う習慣になっていて
至極暢(のん)びりした風景だった」
と犀星は書いています。
東京でも
10日とあけず犀星宅を訪れ
寄せ鍋などを食べていった信夫を、
犀星は「ノブスケ」と呼んで
大変可愛がりました。
しかし信夫は
難病にかかり35歳で死去。
犀星はその死を
以下のように書いています。
「津村信夫はだから偉い父をあいしていた。
偉い法学博士の秀松さんは
この肥っちょの次男坊のために、
就職口を捜してやり、
次男坊信夫は就職先を
いつの間にか無断で辞職して、
詩や小説というものを書いて、
秀松博士を唖然とさせたが、
しまいには秀松博士は
暮らしの金を与えて
好きな事をさせていた。
次男坊は詩というものを書いて、
とうとう半人前から一人前になり、
一人前からすぐれた詩人にかぞえられ、
その詩の中で父というものの
肖像画を何枚も描いて、
そうして三十六歳で
いちはやく死んでいた。
かれはこの世に笑いと詩とをのこし、
愛妻昌子と、
一女初枝とに何やら普段から
たくさんの笑い話を言いのこして行った。
立原道造は二十六歳で死去したが、
立原道造から十年生きのびただけであった」
犀星の深い悲しみが
伝わってきます。










