代表的な観光スポット
軽井沢を語る上でなくてはならない代表的な観光スポット、施設をご紹介いたします。 軽井沢へお越しの際はぜひお役立てください。

代表的な観光スポット

■白糸の滝
fl1a湯川の水源にあるこの滝は、高さ3 m、幅70mの岩はだより数百条の地下水が白糸の如くに落下し、実に美しい滝です。春はさわやかな新緑に包まれ、夏の季節には滝しぶきと涼風が訪れる人々を楽しませ、秋はまばゆいばかりの紅葉が十分に目を楽しませてくれます。
■浅間山(2,568m)
浅間山浅間山は、長野・群馬両県にまたがる日本を代表する活火山です。複雑な形成史をもち、大音響を伴って火砕物を放出するブルカノ式噴火をするのが特徴です。浅間山の噴火の記録として最も古いものは、685(天武天皇14)年と言われており、その後も1108(天仁元)年の噴火は中右記に記録されるなど、多くの噴火記録が残されています。その中でも天明3 年の噴火は、山の北側に火砕流・土石なだれ・泥流が発生し、1151名の方が犠牲になっています。最近の活動は、2004(平成16)年9 月1 日から12月9 日にかけての噴火活動、また2009(平成21)年2 月2 日に小規模噴火をしています。町では、全戸に浅間山火山防災マップを配布し、今後の火山活動の防災に備えています。なお、浅間山の噴火災害軽減のため、噴火警戒レベルを設定(火山活動レベルは廃止)し、数値でお知らせしております。
度重なる火山活動によって育まれた浅間山は、四季折々素晴らしい雄姿を見せ、軽井沢の象徴となっています。このため、安藤広重・松尾芭蕉・小林一茶等、古今より多くの文化人が浅間山一帯を題材にして優れた作品を残しています。なお、小浅間山や石尊山へは登山道が整備されており、浅間山と緑豊かな自然を親しむことができ、季節毎のバードウォッチングにも優れております。
〈注意〉火口から4 ㎞以内は立入禁止ですが、小浅間山と石尊山の登山道に限り、噴火警戒レベルが2以下のときに立ち入ることが出来ます。浅間山付近への登山の際は、軽井沢町消防課防災係(電話0267 − 45 − 1880)又は、軽井沢町ホームページ(http://www.town.karuizawa.nagano.jp)にて、最新の火山情報等をご確認の上、入山してください。
■碓氷(うすい)峠と見晴台
旧軽井沢を抜けて二手橋を渡ると道は急に上り坂となって旧碓氷峠頂上をめざします。旧碓氷峠はその頂上が長野県と群馬県との県境になっていて、その頂上には熊野権現(熊野皇大神社)が祀られています。
この神社を中心に集落があって峠町といい、中山道上州の坂本宿から13㎞、旧軽井沢から3 ㎞の位置にあります。頂上は標高約1,200mで、そこには「サンセットポイント」の名で知られている見晴台があります。この見晴台からの眺望は、千ヶ滝の万山望と共に大変すばらしく、榛名、妙義、赤城の上州三山や日光の連山、遠くかすんで広がる関東平野、更に視線を移すと八ヶ岳や南アルプスの連峰と続き、背後に噴煙たなびく雄大な浅間山と訪れる人たちの大きな感嘆を呼んでいます。なお、この地は当時町内ただひとつの町立公園として昭和32年、近藤友右衛門氏から寄贈されたもので、氏を称えた碑も立っています。
旧碓氷峠は軽井沢駅より6 ㎞、旧軽井沢から3 ㎞あまりの距離であるところから、手軽に出かけられる散策地として人気があり、遊覧歩道も整備されており、平成17年6 月から平成18年2 月には老朽化した吊橋の架け替えも行われました。
■金原やぶ
“にせ官軍”と呼ばれ追分で打ち死にした勤王の志士、金原忠蔵の首塚のある所です。この、にせ官軍事件とは明治元年この地方において大変な騒ぎであったといいます。しかし、その後これは本当の勤王の志士であることが判明され、賊名をとかれ叙位の恩恵にあずかったというのが結末です。
なお、昭和18年、千葉県より遺族が来られ、大慰霊祭を行って手厚く葬られています。
■二手橋(にてばし)
その昔、軽井沢宿に泊った旅人同志が互いにこの橋の上で名残りを惜しみながら手を振り振り二手に別れたというところから二手橋と呼ばれたが、これには別説があって、それによると旅人を送り出す旅籠の人がこの橋まで見送ってきて「どうぞお気をつけて、それではこれにて」と別れたので二手橋というのだという説もあります。いずれにしろ、中山道を旅する当時の人たちと宿の人たちとの風情が偲ばれる橋である事にはちがいありません。
■雲場池(くもばいけ)
080726-060731-ISO200-F8,0-S45-17mm(IMG_7127)スワンレイクという愛称を持つ池で、初夏の緑と空の青さは何とも言えず美しく、秋の紅葉は色鮮やかに雲場池に映し出されます。
せり出すように茂る木々が水面に美しい影を落とし、四季を通じて軽井沢ならではの風景を描いてくれます。池の周りには約10〜20分で歩ける遊歩道が整備されています。
■竜返しの滝
この滝は数段からなる滝が落下し、各々円形状の滝壺がうずを巻きながら数珠玉を連ねたようであったところから土地の人たちは昔、「すずが滝」と呼んでいました。明治の中頃、漁師が投網を背に岩伝いに上流を越そうとした折に、突如竜の如き大きい蛇が一本の細い朽ち木をたよりに向う側へ渡ろうとしていたのを発見しました。ところが突然その朽ち木がポキリと折れ大蛇は急流に流され、とうとう深い滝壺の底にのまれ姿を消してしまったといいます。以後、竜も近づげない険しい滝として「竜返しの滝」といわれる様になったと伝えられています。
■万山望(まんざんぼう)
浅間山のなだらかな斜面を望みながら、峰の茶屋へと登っていく途中には、軽井沢高原のみごとな展望台である万山望があります。ここからの眺めは、素晴らしいものです。
■千ケ滝(せんがたき)
千ヶ滝fix千ヶ滝地区の湯川支流の水源近くに位置する20m程の滝です。この滝に至る道は、「森林・野鳥等とふれあい、川辺の散策を楽しむ」をイメージして、遊歩道、水遊び場などが整備されています。
■鬼押出し
世界三大奇勝の一つとして訪れる人たちを驚嘆させる鬼押出しは、天明3 年(1783)の浅間山大爆発の際、火口から噴流した溶岩がそのまま自然の岩となって出来たもので現在は軽井沢と万座・草津温泉を結ぶ上信越高原国立公園を縦断する浅間・白根火山ルートの中心観光地となっています。なお、長野原町町営の浅間園火山博物館には浅間山を中心とした火山関係の資料の数々が多く展示陳列されています。
■石尊(せきそん)山(1,667.7m)
浅間山へ登る途中にあって、座禅窟の奇勝があり、幾体かの石地蔵が安置されています。山頂は木の茂みなどもなく北方に浅間山の弥陀か城岩が、みごとに仰がれます。
※火山の活動状況により、入山規制が変わる場合がありますので、軽井沢町消防課防災係(電話 0267 −45 − 1880)又は、軽井沢町ホームページ(http://www.town.karuizawa.nagano.jp)にて、火山情報をご確認下さい。
■赤滝(あかたき)
石尊山腹にあり、血の池付近に源を発する濁川の流れに従い赤褐色に変化し、高さ9 mの滝となっています。現在は水量が少なくなっています。
■中山道(なかせんどう)
1602年(慶長7 )徳川家康が制定した五街道の一つで、東海道と並んで江戸時代の重要な道路でした。
江戸日本橋から上州を経て信濃に入り、軽井沢・沓掛・追分の浅間三宿を経て近江の守山まで67宿、次の草津で東海道と合し、京都まで69次でした。
中山道は、江戸開府直後東海道と共に本格的に開拓されたもので、一里塚や松並木など整備され、宿場中心部には、本陣や、脇本陣、大名らの宿泊所や伝馬を扱う問屋などを定め、一般旅人の旅籠屋、茶屋、伝馬をつとめる農家などが並んでいました。36町( 4 ㎞)毎に築かれた一里塚は軽井沢には三カ所ありましたが、現在、その面影を偲ばせるものは追分の浅間神社と西部小学校の間にある一里塚のみです。
◆中仙道と中山道
名称も、はじめは中仙道でしたが、東山道の中筋ということで、享保元年(1716 年)に中山道と改められました。『五街道宿御取扱秘書』に「中山道只今迄仙之字書候得共向後山之字可書之」とあります。 (『中仙道信濃二六宿』より)

●浅間三宿

■軽井沢宿
碓氷峠を西に約2.5 ㎞下ると浅間三宿のひとつ「軽井沢の宿」があります。軽井沢宿は天下の難所碓氷峠をひかえた宿場町として中山道67宿の内でも繁栄した宿場でありました。中山道の往来が頻繁になるにしたがってめざましい発展を示し、元禄の時代になると宿場の西に新町が出来るほどの繁昌ぶりでありました。当時この宿場には、本陣1 、脇本陣4 が設けられ、問屋1 、高札場、中小の旅籠屋が軒を連ねて、常
備の人馬もおいていました。 当時の軽井沢宿の人口は、文献によると宝暦年間に1,442人(男595 人、女847 人)で戸数も201 戸を数えたといいます。また女の数が多いのは当時の他の宿場町と同様に旅籠屋に接待婦として「飯盛女」を多数抱えていたからです。
“木曽路名所図会”によると「軽井沢・沓掛・追分の三宿は、浅間岳の腰にて地形いよいよ高し。此三駅の間南北半里ばかり、東西三里が程、たいらかなる広野也。寒きこと甚くて五穀生せず、ただ稗・喬麦のみ多し。又果の樹もなし。」と述べられています。
この時期の軽井沢宿の様子を戯作者太田南畝は「石橋を渡って軽井沢に到る。ここはあやしのうかれ女のふしどと聞けば、さしのぞきてみるにさすがに前の駅よりは賑わしく見ゆ」と記していることからみても、中山道碓氷峠をひかえた軽井沢は現在のそれとは比較にこそならないが、かなりの賑わいを見せていた宿場であったようです。
■沓 掛 宿
「沓掛宿(現中軽井沢)」、浅間三宿のうち真中に在する宿場町。この宿は、その昔、長倉神社(延喜式内)と長倉駅があったところとして、また佐久開発帖に佐久最古の村落であると伝えられる古宿の宿場町です。
それ以前には「東鑑(あずまかがみ)」にのっている源頼朝の浅間山の巻狩り等、すでに戦国時代以前にこの地が開かれ、相当な豪族がいたと伝えられています。
江戸時代となってからは隣接する軽井沢・追分の両宿の繁栄には及ばなかったものの、草津・仁礼道の分岐宿として本陣1 、脇本陣3 、問屋2 を持っていました。
安永年間の人口調べを見ると、673 人、内男307 人、女366 人と記されています。
■追 分 宿
この宿は官道時代の昔から交通の要衝の地でした。
当時は戸数40戸前後の小宿でしたが、江戸時代に入って中山道の大改修が行なわれ、参勤交代が実施されたことから著しい発展をしました。中山道と北国街道との分岐宿として人馬の往来が激しく、貞享
当時の記録によると旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒、その他5 軒を数えるほどの宿場でした。続いて、比較的通行の自由が許された元禄の時代には戸数152 、人口は男が354 人、女534 人、出家4 人の計892 人となっています。この追分宿には本陣1 、脇本陣2 、問屋1 がおかれ、追分節で“追分1 町2 町3 町4 町5 町ある宿で”とうたわれているように、宿場町としての形態は他の宿場と比較できないほど整備されていたといわれています。また「追分節」は宿の遊女たちの情をうたいあげているといわれていますが、その遊女、飯盛女たちの数も最盛期には200 人から270 人もいて、旅客相手の生活をしていたといわれています。これらのことから、当時の追分宿は、名実ともに活気あふれる盛んな宿場町であったことが伺われます。
■ます形の茶屋
追分宿の西のはずれに残っているのがます形の茶屋です。ます形の茶屋とは、江戸時代に幕府が軍事上の目的から中山道の追分西端あたりを桝形に屈曲させて宿場内の様子が見えないようにしたものです。
その桝形付近には幾軒かの茶屋があったところから“ます形の茶屋”と呼ばれたようです。その中の一軒が現在でもその原型を留めています。
■一 里 塚
江戸時代、旅人の宿程の目安として日本橋を起点に1 里ごとにおかれた塚で休憩の場ともなりました。
■長倉の牧堤跡
佐久三牧(望月・塩野・長倉)の一つで平安朝初期に設定された軽井沢高原一帯を占める広大な官牧です。牧堤跡は、古来「駒飼いの土手」と呼ばれ、追分方面にもその面影をとどめています。
■離 山(1,255.9m)
標高1,255.9mで軽井沢高原の真ん中に、もっくりと首をもたげたような山です。山頂は展望にすぐれ視界は360 度、軽井沢町の全域、浅間山、遠くは日本アルプス・八ケ岳連峰・富士山等を見ることができます。山頂は展望台、歩道などが整備され家族連れに最適です。
■三笠通りのから松並木
旧軽井沢ロータリーを左に入った三笠通りに、から松並木があります。から松は落葉針葉樹に属し春の芽吹きや秋の黄葉がとても美しく多くの詩歌にも詠まれています。このから松並木は、新日本街路樹100 景に選ばれています。
■ 塩 沢 湖
軽井沢の南に塩沢湖があります。北に浅間山を望み、湖畔の周辺には民宿がたくさんあり民宿村となっていて、テニスなどのスポーツが盛んです。又、湖周辺に数々の施設がありボートなどにも乗れます。また、最近では、塩沢にホタルスポットも出現し、ホタル祭りと題うって鑑賞会が開かれています。
■ 八風山(はっぷうさん)(1,315.2m)
軽井沢の最南端にある山で標高1,315.2 mの頂上からは広大な展望が望めます。
■湯 川
町の市街地を流れる一級河川でシーズン中は多くの釣り人で賑わいます。
自然環境を保全しながら芝生広場、ドッグラン、遊戯施設など親しみやすい水辺の空間として「湯川ふるさと公園」があります。
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