【堀辰雄「恢復期」⑤浅間山の噴火】
まだ八月の半ばを
過ぎたばかりなのに、
もう秋風らしいものが
周囲の木の葉を
さわさわ揺すぶっているのを
耳にひやりと聞きながら、
或る朝、彼
が二階のベッドの中で
いつまでもぐずぐずしていると、
突然戸外で
マグネシウムを焚たいたような
爆音がした。
それと同時に家全体が
はげしく動揺した。
「浅間山よ……
早く来てごらんなさいよ」
階下のヴェランダで
叔母が叫んでいるらしかった。
彼は寝間着の上に
上着をひっかけて
ヴェランダへ降りて行った。
「僕はまた写真屋が
マグネシウムでも
焚いたのかと思った。
それにしては朝っぱらから
変だと思ったけれど……」
なるほどヴェランダからは、
浅間山がその
花キャベツに似た噴煙を
むくむくと持ち上げている
何とも云えず無気味な光景が
はっきりと見えた。
その無気味な煙りの中には、
ときどき稲妻のようなものが
光っていた。
・・・中略・・・
やっとその小枝に火が燃え移って、
ぱちぱちとそれが
快活な音を立て出すと、
叔母も自分の椅子を
その火のそばに近づけた。
「そうしているところは、
あなたも随分丈夫そうになってね」
叔母が言った。
「そうですか。
――でも、もうかれこれ
一年になるんですからね……
ねえ、叔母さん、
僕ね、去年二回
喀血(かっけつ)したでしょう。
……最初の時は、
どういうもんだか
気持がよかったくらいでしたよ。
そりゃ何しろ生れて始めてなので、
びっくりしたことは
びっくりしたけれど、
もうこのまま
死んで行くのだと思ったら、
かえって
落着いてしまったのでしょうね。
……だけど、二度目のときは
ほんとに厭(いや)だったなあ。
――あの時はもう、
ひょっとしたら
助かるかも知れないという
気がしていたもんだから、
かえって慌ててしまって、
僕は無理矢理に咽喉(のど)から
上げてくる血を
半分ばかり
飲み込んでしまったんだからなあ。
そのあとの
気持の悪いったらなかったし、
医老には叱しかられるし……
僕はあの時くらい
人間の生きようとする意志を
醜く思ったことはないなあ……」
彼は何時(いつ)か
ひとりごとのように
言いつづけていた。
が、ふと彼のそばに
叔母が何だか
煙ったそうな顔を
しているのに気づくと、
彼は強(し)いて口をつぐんだ。
そうして一本の
くすぶっている小枝を
いじくっていたが、
その様子には何処(どこ)か
言いたいことが
どうしても言えないで
それをもどかしそうに
しているようなところがあった。
恐らく彼は
叔母に向って
こう言いたかったのかも知れない。……
「叔母さん、
そんなに僕が
生きていればいいと思いますの?」……
そうして二人は
そのまましばらく黙っていた。
そのうちにさっと何かが
木の葉の上に
降ってくる音がし出した。
それは乾かわいた
雨のような音だった。
「浅間の灰かな?……」
叔母はそうつぶやくと、
そっと立上って
窓ぎわへ寄って行った。
(堀辰雄「恢復期(かいふくき)」より)
ー
7月3日午前8時、
気温15.8℃、曇り。
画像は、
離山から望む浅間山です。
ところで「恢復期」は、
静謐な夜明け前の
諏訪湖で始まり
浅間山の噴火と降灰で終わります。
そしてこ堀辰雄は
主人公の「彼」に、
「僕はあの時くらい
人間の生きようとする意志を
醜く思ったことはないなあ」
という驚くべき発言を
させています。
「生きようともがくのは当たり前」と、
堀は思っていなかった
ということでしょうか。
では、そのように
もがかない生き方というものが、
堀の念頭にあったのでしょうか。
それを示唆するのが、
前々回ご紹介した
詩篇22篇です。
詩篇22篇は、
ゴルゴダの丘での
キリストの姿を
予言したものと
考えられています。
となると堀は、
最後は最も悲惨な
磔刑に処せられると
あらかじめ知っていた
キリストの生き方と比べて、
生に執着してもがく生き方を
「醜い」と感じていた
ということにならないでしょうか。
自らの生き方を、
キリストと比較して
省みること。
もしそれが
堀の真意なのだとしたら、
この「恢復期」は
ある意味
堀の密やかな
信仰告白と
言えるのかもしれません。
▼遠回りして訪れた諏訪湖を
「聖母の青衣」と表現し
▼老人に祈ってもらい
▼サナトリウムから諏訪湖を探し
▼ゴルゴダを予言する詩篇を口癖とし
▼宣教師が
叔母の家に住んでいたことを語り
▼最後は浅間山の噴火と
喀血についての会話、
並びに投げつけられた礫(つぶて)
のような降灰の音で
磔刑を連想させるーー
「恢復期」は、
そうした意図をもって
書かれた小説のように
思えるのです。










