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新旧軽井沢

春の特集展示「藤田嗣治 エコール・ド・パリの時代」 2024.03.07~07.23

2024.03.07〜2024.07.23

1 1913年、世界の舞台で闘うためにパリに渡った藤田。そこで彼が目にしたのは、自由な作風を謳歌する画家たちの姿でした。1920年代、パリのモンマルトルやモンパルナス界隈には「エコール・ド・パリ(パリ派)」と呼ばれる若い画家たちが集い、制作活動を行なっていました。彼らの多くは諸外国のユダヤ人家庭の出身で、なかでもロシアや東欧から流入した異邦人がその中核を成していました。例えば、藤田の親友であったアメデオ・クレメンテ・モディリアーニは北イタリアの裕福なユダヤ人家庭の出身でした。

 

若い画家たちは、パブロ・ピカソがジョルジュ・ブラックとともに立ち上げ、当時のパリで盛り上がりを見せていたキュビスムから影響を受けつつも、特定の流派・様式・主義をもつことはありませんでした。彼らは国籍・文化・思想など、各々のバックグランドに依拠しながら、独自のスタイルを生み出していったのです。そして1913年に渡仏した藤田もこの一員となり、自分にしか描けない作品を目指したのでした。

 

渡仏後、藤田はピカソやアンリ・ルソー、モディリアーニの作風にヒントを得ながら、さまざまなモティーフに挑戦、そして1917年、シェロン画廊と契約を交わし、世に出るチャンスを掴みます。藤田と同じく、他の画家たちにも画商やパトロンがつき、1920年代、「エコール・ド・パリ」のメンバーは目覚ましい活動を見せるのです。

 

しかし、1929年の世界恐慌による混乱とファシズムの台頭は、ユダヤ系の画家たちが中核を成すこの集団に打撃を与えました。亡命あるいは帰郷する者たちが相次ぎ、「エコール・ド・パリ」は、事実上、終焉を迎えるのです。

 

本展では、藤田の名が次第に知られるようになった頃の作品、《二人の少女》(1918)や《街はずれの門》(1918)をはじめ、藤田を一躍有名にした「乳白色の肌」の作品の数々、それに並行して制作された油彩画などから、紆余曲折しながらも独自のスタイルの確立に邁進したエコール・ド・パリの時代の藤田の歩みを追い、彼のオリジナリティーについて考えてみたいと思います。

 

Information

開催日時 2024.3.7(Thu.)~7.23(Thu.)
10:00-17:00 
開催場所 軽井沢安東美術館
URL https://www.musee-ando.com/
お問合せ先 0267-42-1230

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