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片山廣子「野に住みて」①夫の逝去

2026.10.10

【片山廣子「野に住みて」①夫の逝去】

おもひでの駿河

わが夫なくなりし大正九年には
常のごとく輕井澤に
避暑する氣力もなく
心身よわりてありしを、
人のすすめにより御殿場にゆきて
七月八月を過しぬ。

記憶すでにうすらぎて
わが世の事ともおぼえず、
ただその夏の富士を
かすかに思ひ出でて

富士が嶺を土なるものとながめつつ
駿河の國に旅寢せし夏

(片山廣子「野に住みて」より)

⸻

画像は、
堀辰雄「物語の女」の舞台となった
追分宿の高札所です。

ところで
引用したのは
1954年(昭和29年)に発行された
片山廣子の第二歌集
「野に住みて」です。

片山廣子の7歳年上の夫
片山貞治郎は
大蔵省を経て
日本銀行理事となりましたが、
1920年(大正9年)3月に
50歳で亡くなりました。

その年
片山廣子は、
夫との思い出が詰まった
華やかな軽井沢に
来ることができなかったようです。

ではなぜ、
御殿場を勧められたのか。

その理由を知る、
興味深いデータがあります。

片山廣子の夫が亡くなった年の
2年前、
1918年(大正7年)の統計によると
「外人向き避暑地における
来遊及び滞在の人員の概数」は
▼信州軽井沢3000人
▼長崎県温泉嶽7000人
▼日光中禅寺湖5000人
▼静岡県御殿場250人
▼安房北條2000人
▼箱根7200人
だったそうです。

(本多静六・上原敬二
「信州駒ヶ岳森林公園と
菅の台避暑地計画案」より)

この当時
御殿場への避暑客は、
軽井沢の10分の1以下でした。

このため
喪中の廣子には、
ひっそりとした御殿場の方が
合っていたのだと思われます。

そして
翌年の1921年(大正10年)以降は、
再び軽井沢へ
避暑に来るようになりました。

⸻

ちなみに引用した短歌は
普段東京から青いシルエットとして
眺めている富士山の
お膝元に来たことにより、
ゴツゴツとした岩肌や
宝永火口などが間近に見え
その迫力に圧倒されたことを
「土なるもの」と詠んだのだと
筆者は思っています。

撮影日20251021
投稿日20261010

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