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堀辰雄「菜穂子 楡の家 第二部」⑭菜穂子

2026.10.01

【堀辰雄「菜穂子 楡の家 第二部」⑭菜穂子】

菜穂子の追記

 此処で、
母の日記は中絶している。

その日記の一番終りに記されてある
或秋の日の
小さな出来事があってから、
丁度一箇年立って、
やはり同じ山の家で、
母がその日のことを
何を思い立たれてか
急にお書き出しに
なっていらっしった折も折、
再度の狭心症の発作に襲われて
その儘お倒れになった。

此の手帳はその
意識を失われた母の傍らに、
書きかけのまま開かれてあったのを
爺やが見つけたものである。

 母の危篤の知らせに驚いて
東京から駈けつけた私は、
母の死後、
爺やから渡された手帳が
母の最近の日記らしいのを
すぐ認めたが、
そのときは何かすぐそれを
読んで見ようという気には
なれなかった。

私はその儘、
それをO村の小屋に残してきた。
私はその数箇月前に
既に母の意に反した
結婚をしてしまっていた。

その時はまだ自分の新しい道を
伐(き)り拓(ひら)こうとして
努力している最中だったので、
一たび葬った自分の過去を
再びふりかえって見るような事は
私には堪え難いことだったからだ。……

 その次ぎに又O村の家に
残して置いたものの整理に
一人で来たとき、
私ははじめてその母の日記を読んだ。

この前のときから
まだ半年とは立っていなかったが、
私は母が気づかったように
自分の前途の
極めて困難であるのを
漸(ようや)く身にしみて
知り出していた折でもあった。

私は半ばその母に対する
一種のなつかしさ、
半ば自分に対する悔恨から、
その手帳をはじめて手にとったが、
それを読みはじめるや否や、
私はそこに描かれている当時の少女に
なったようになって、
やはり母の一言一言に
小さな反抗を感ぜずにはいられない
自分を見出した。

私は何んとしてもいまだに
此の日記の母を
うけいれるわけには
いかないのである。

――お母様、
この日記の中でのように、
私がお母様から
逃げまわっていたのは
お母様自身からなのです。

それはお母様の
お心のうちにだけ在る私の
悩める姿からなのです。

私はそんな事でもって
一度もそんなに苦しんだり
悩んだりした事は
ございませんもの。……

 私はそう心のなかで、
思わず母に呼びかけては、
何遍もその手帳を
中途で手放そうと思いながら、
矢っ張最後まで読んでしまった。

読(よ)み了おわっても、
それを読みはじめたときから
私の胸を一ぱいにさせていた
憤懣(ふんまん)に近いものは
なかなか消え去るようには
見えなかった。

 しかし気がついてみると、
私はこの日記を手にしたまま、
いつか知(し)らず識(し)らず
のうちに、一昨年の秋の或る朝、
母がそこに腰かけて
私を待ちながら
最初の発作に襲われた、
大きな楡の木の下に来ていた。

いまはまだ春先きで、
その楡の木はすっかり
葉を失っていた。

ただそのときの
丸木の腰かけだけが
半ば毀(こわ)れながら
元の場所に残っていた。

 私がその半ば毀れた母の腰かけを
認めた瞬間であった。

この日記読了後の
一種説明しがたい母への同化、
それ故にこそ又同時に
それに対する殆ど
嫌悪にさえ近いものが、
突然私の手にしていた日記を
その儘その楡の木の下に
埋めることを私に思い立たせた。……

(堀辰雄「菜穂子 楡の家 第二部」より)

ー

画像は、
追分宿郷土館です。

片山廣子の娘
総子さんをモデルにしつつ
堀辰雄が心の中で育てた
菜穂子という人物が、
ようやくここで
主人公となりました。

娘の母に対する心理的葛藤を、
堀は巧みに描いています。

そして物語は、
第二部「菜穂子」へ。

しかし実は小説「菜穂子 」の中の
「物語の女」すなわち
「楡の家 第一部」は
1934年(昭和9年)10月に
発表されていますが、
「楡の家 第二部」と
第二部「菜穂子」は、
どちらも1941年(昭和16年)に
発表されたものです。

その7年の間に、
堀の人生は大きく変わりました。

第二部「菜穂子」は、
その間の出来事を
色濃く反映したものです。

このためこの投稿でも
第二部「菜穂子」に進まず、
登場人物たちの話を書くため
時間を遡ることにします。

撮影日20251021
投稿日20261001

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