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軽井沢を知る

About Karuizawa

軽井沢日本史

有史以前の軽井沢

古くは縄文時代より、軽井沢高原一帯には広い地域に人々が住んでおり、あちらこちらで集落が形成されていたようだ。
高冷な気候にもかかわらず、鳥獣や果実・球根類が豊富で、古くから人々が住むのに適したところだっ
たのだろう。その証拠に古代遺跡を訪ねてみると、今から6~7千年前の縄文時代前期のものと思われる土器が茂沢川上流、大勝負沢付近から見つかっている。同代中期・後期にかけての遺跡と思われる茂沢南石堂の住居跡も残されている。ここには、住居跡ばかりでなく立派な石組みの墓地が環状にならんでいることで、学会はじめ各方面からも広く注目されている。この時期に出土した遺物は、茂沢を始めとして、杉瓜・発地付近・千ヶ滝・旧軽井沢・矢ヶ崎川の水源地付近まで広い地域に及んでいる。

また、弥生時代に入ってからの遺物も湯川・杉瓜・茂沢などから発見され、狩猟から農耕牧畜への過渡期にも人々が住んでいた事がうかがわれる。信濃16牧の一つに長倉の牧があるが、特にこの地は清涼な気侯と豊富な草原に恵まれていて、狩場や牧場に大変適していたことを物語っている。この土手と思われるものが、現在の旧軽井沢から離山のふもとを通り、南ケ丘・古宿、遠くは追分方面まで広がっている。

古代の軽井沢と東山道

浅間山の南麓に位置する軽井沢は、関東地方と信濃を結ぶ交通の要地にあった。そのため古代から現在に至るまで、主要な道路や鉄道が軽井沢を通っていた。
交通の要地としても軽井沢はその重要な歴史をたどってきた。

およそ平安時代までには、本州内陸部から北へ貫く道として東山道があり、入山峠(軽井沢町成沢と群馬県安中市入山の境界に位置する峠)を通っていたのではないかと言われている。

これは入山峠から、昭和30年に多くの石製模造祭器が発見されたことからだ。これらの遺物はおよそ平安時代までの比較的身分の高い人々が旅する時に、ヌサ袋(お供え用の袋)に入れて携え、山の峰で神々に奉り、旅の道中の安全と残してきた家族郎党の安泰を祈願したものと伝えられているものだが、同様なものが、立科町の雨境峠や木曽山中の神坂峠でも発見されていることから、この入山峠が古代の主要幹道の一つであった東山道ではないかと考えられたのだ。

~[コラム]東山道の道程~
平安時代の10世紀ごろに編集された『延喜式(えんぎしき)』には、佐久地方を通る東山道の駅(うまや)と駅馬(えきば)が書かれている。東山道は国府が置かれた松本から小県を通って、佐久地方へ入ってきた。
「浦野(10疋)、亘理(10疋)、清水(10疋)、長倉(15疋)、坂本(15疋)」(それぞれが駅の名前と馬の頭数をあらわしている)と書かれていることから、浅間山麓を通っていたことがわかる。清水の駅の場所は、諸(現在の小諸市)と推定されているが、長倉駅については中軽井沢の長倉神社付近が有力視されている。はっきりした資料が見つかっていない。
東山道が軽井沢の東部山地のどこを越えたかについては、入山峠が有力視されているが、『群馬県史』では、入山峠と熊野神社前とを両論併記の形で記述している。
~[コラム]長倉の牧(写真 駒止めの土堤)~
長倉の牧は平安時代に設けられた官牧(かんぼく)の一つで、これは朝廷へ献上するための馬を放牧するための今でいう牧場のことだ。
軽井沢高原一帯を占める広大な官牧であったと考えられている。ここから朝廷へ馬を納められ、駅馬などの交通産業上、大きな役割をはたした。
信濃国には16の官牧があって、佐久郡には長倉牧・塩野牧・菱野牧・望月の牧がつくられた。(『吾妻鏡』より)
長倉牧は中軽井沢の千ヶ滝プリンス通りへので発見された「駒止めの土堤」や、南軽井沢の「馬越」「馬取」などの地名から、浅間山の南麓で、馬が飼われていた。
佐久地方には「御牧(みまき)」という地名や、「望月の駒」の伝説が残っているが、望月牧からは年に30足もの馬が送られ、拾遺集には
「あふ坂の関のしずみに影見えて いまや引くらむ望月の駒 (紀貫之)」
の歌をはじめたくさんの和歌が残されている。
長倉の牧についての史料は少ないが、奈良・平安時代には多くの馬が飼われていた。
~[コラム]熊野神社の銅鐘~
熊野神社には高さ約1m、直径約60cmの銅鐘が所蔵されている。この鐘には写真下にあるような銘文が彫られている。文の内容から正応五年(1292)卯月(5月)8日に、松井田の12人が碓氷峠の熊野神社に大鐘を奉納したと書かれている。馬の背で運ぶことのできないと思われる重い鐘を、麓の松井田から熊野神社(神宮寺か)に運び上げるには、道があったからであろう。重い鐘はがんじょうな台に乗せ、馬と人間がゴロと呼ばれる丸い棒の上を転(ころが)して、引き上げたと考えられる。

中世の軽井沢と中山道

東山道は時代とともに改良され、戦国時代には中山道が生まれ、やがて関ヶ原の戦が終わった慶長7年(1602)、江戸幕府が中山道の整備を始め、のちに東海道 、日光街道、奥州街道、甲州街道と並ぶ五街道と呼ばれるひとつとなるが、ここでも軽井沢は宿場として栄えることになる。

中山道は江戸から上州の坂本宿を経て、刎石(はねいし)山の急坂を登り、刎石立場(たてば)・山中立場を経て、熊野神社前で頂上(1188m)に達する街道だ。
熊野神社からは、西へかもん坂を下って、麓に軽井沢宿がつくられた。軽井沢宿から南西に向かった中山道は、離山下から西に進み、湯川橋を渡って沓掛宿に入った。沓掛宿からは浅間山の東を越えて、上州大笹や草津へ道が通じていた。中山道は沓掛からさらに西へ進み、浅間山を北に見ながら、古宿(ふるじゅく)・借宿(かりやど)を通って追分宿に入っている。追分宿からは中山道は京都へ向かって南西へ、北国街道(善光寺道)は西へと追分原を下っている。この分岐点は「分去(わかさ)れ」と呼ばれて、善光寺の常夜灯や石仏などが建てられている。

宿場はほぼ直線的につくられ、その中央に本陣を置いて、大名や公家などの宿泊に備え、問屋によって荷物の継(つ)ぎ送りをおこなった。宿内には旅籠(はたご)や茶屋などの施設が増えると、商用や寺社参りなどの人々が利用した。
宝永4年(1707)に書かれた貝原益軒(かいばらいっけん)の『木曽路記』には
「軽井沢・沓掛・追分の三宿は、浅間嶽の腰にて地形いよいよ高し、此三駅の間南北半星ばかり、東西二、三里が程たいらなる広野也(なり)、寒きこと甚(はなはだ)しくて五穀生せず、ただ稗(ひえ)・蕎(そば)・麦(むぎ)のみ多し。また果(くだもの)の樹もなし。民家にも植木なし。」と書かれており、当時の軽井沢の様子を伺うことができる。

~[コラム]軽井沢宿~
軽井沢宿(かるいさわしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて十八番目の宿場で、当時の交通手段である馬の駅であるが、旅籠(はたご)や茶屋なども多く、宿場町として栄えた。現在の軽井沢駅北側にあたる。
碓氷峠を西に下った位置にあって、交通上・軍事上の要地であった。しかし、一帯は火山灰や軽石に被われ、標高が高いこともあって、住んでいる人が少なかった。そのため宿場を形成するために、峠の東側(上州)にあった入山集落の人々を移住させた。
~[コラム] 沓掛宿~
沓掛宿(くつかけしゅく)もまた、現在の中軽井沢にあたる宿場だ。
『木曽路名所図会(ずえ)』には「左右相対して巷(ちまた)をなす。餘は散在し農家多し。宿の入口に浅間嶽への道あり」と書かれ、軽井沢宿や追分宿に比べて小さい宿場だったようである。
軽井沢宿に比べると農家が多かった。
沓掛宿より北へ、上州の大笹(おおささ)・信州の仁礼(にれ)へ通じる大笹街道草津道と、南の上州入山(いりやま)へ続く入山道が分岐していた。大笹~仁礼街道は、北信濃方面からの物資運搬の道であり、中山道の宿場を通らない「付け通し」で早く運ぶ中馬(ちゅうま)稼ぎ(佐久では農間稼ぎ)がおこなわれた。
~[コラム]追分宿~
追分宿(おいわけしゅく)は浅間山の南麓、標高約1000mの中山道宿駅では最も標高の高い宿場であり、現在の軽井沢町追分にあたる。
追分宿は浅間三宿のなかで最も大きくにぎわった宿場で、旅籠屋が全戸数の3割7分を占めていた。女が男に比べて多いのは、飯盛(めしも)り女が多かったことによる。(元禄時代には200人を超えた)歌い坂・泣き坂・笑い坂の地名はそんなことから生まれたのであろう。
追分宿には「荷物貫目改所(かんめあらためじょ)」が置かれていた。荷物改所は天保9年に道中奉行によって、追分宿を通る荷物の重さを検査するため、問屋場に手代一人を置いて調べていた。
追分宿は中山道と北国街道から荷物や人が集まることから、浅間三宿の中では最もにぎわった宿場であった。

江戸時代の軽井沢

江戸時代になると軽井沢が中山道の一宿として開かれたのは先に述べた通りだ。
碓氷峠という東海道の箱根と並んで天下一の難所として聞こえた関所をひかえ、更に北国街道の分岐点をもつ軽井沢高原には、浅間根腰の三宿(軽井沢・沓掛・追分)が形成され、街道筋の中にあってその
繁栄振りは今に語り継がれている。
しかしながら、この宿場町を取り囲むように広がる農村地帯は、高冷地のため、ごくわずかのアワ、ヒエ等の雑穀物が主産という寒村であった。
しかも例年の如く襲う冷害や活火山浅間の噴火による災害に見舞われ、加えて宿場への助郷にかり出されるため、農業に携わる民の生活は悲惨なものであったと伝えられている。いうなればこの時代の軽井沢は、旅人たちの落とす路銀が生活を支える大きな収入源であったわけだ。そのため江戸幕府300年の歴史が絶え明治の新時代になると、街道を往来する旅人も年々少なくなり、かつての隆盛を極めた宿場も寂しくなって、住民たちは四散し、高寒冷地の一村として衰退の一途をたどったのだ。
更に明治17年碓氷新道(現在の国道旧18号線)の開通によって、中山道沿いの旧宿場町は決定的な打撃を受け、ここに長く続いた浅間三宿の歴史は完全に終止符を打つに至った。

しかし軽井沢の歴史がここで終わってしまうわけではない。
明治時代になると、宣教師たちが訪れ、この地を避暑地として認め、やがて軽井沢は豊かな高原野菜の育つ、静かで美しい町へと変わっていくことになるのだから。

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