軽井沢の地理風土
涼しくも厳しい気候・風土でもあった軽井沢。 交通の要所として切り開かれ、次第に人を癒す力を持った町として 様々な人に愛されてきました。

海外人からも愛される地

世界からみた軽井沢

軽井沢高原の自然景観、文化景観は、日本的ではないといわれる。これは地形的に欧米諸国に似ているばかりか、ミズナラ帯に属する森林植生が、植物景観の面でもそれらの国の自然景観と共通性があるからである。
軽井沢に滞在したフランス人は、故国のボージュ山脈、ドイツ人は、シュヴァルツヴァルト(黒い森と訳されている)、もしくはバイエルン州、アメリカ人はミシガン州あたりの風景を連想するという。

そもそも軽井沢が避暑地として誕生したきっかけは、カナダ生まれの宣教師アレキサンダー・クロフト・ショー氏がこの地を訪れ、避暑地として見出したことによるものだということは他に述べたとおりだが(>軽井沢の歴史にリンク)、軽井沢の自然・気候は世界中の人に受け入れやすかったものだと言える。

安政の開国(1854年)後、日本にやってきた白人たちが生活上最も苦しんだのは、真夏の酷暑であった。白人たちの母国である北西ヨーロッパや北アメリカ北部では、真夏でも最高気温が20℃をこえる日が少ない。そこで夏でも冷涼な避暑地(hill station)を求めたのである。

明治初期外人たちは東京に近い避暑地として、藤沢市の鵠沼、葉山などの湘南海岸や、箱根、御殿場、日光中禅寺湖畔、伊豆、那須野、伊香保などに別荘やホテルを造った。
明治中期以降遅れて避暑地の開発が始められた軽井沢であったが、大正になると日本第一の避暑地に発展した。
大正12年(1923)の関東大地震で湘南海岸の別荘が被害を受けたので、軽井沢に別荘を移転する人も出てきた。

それ以前の軽井沢高原の主要な地域は、江戸時代里山であり、牛馬に与える秣草(まぐさ)や薪炭材が採取されていた。離山などは第二次大戦後まで草山であり、樹木は自生していなかったようだ。

歌川広重・渓斎英泉の描いた浮世絵『木曽街道六拾九次』の軽井沢宿・沓掛宿・追分宿には、あまり樹木が描かれていない。
北原白秋が作詞した「落葉松の詩」は、大正10年(1921)に発表されたが、ここでうたわれている落葉松は明治16年(1883)甲州財閥の雨宮敬次郎が植えた700万本に及ぶ落葉松38年生の人工林をうたったものであった。
浅間山麓にあった天然カラマツ(天落葉/てんから)は、亜高山帯の浅間山の中腹まで行かないと見当たらない。
追分の浅間神社にある落葉松は樹齢200年以上の巨木であるがこれは植えられた人口樹である。

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